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2017年9月4日 (月) 14:26時点における版
第回衆議院議員総選挙 | |||
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議席内訳 | |||
有権者数 | 人 | ||
公示前勢力現有政党 | |||
1890年 > | |||
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第21回衆議院議員総選挙(だい21かいしゅうぎいんぎいんそうせんきょ)は、1942年(昭和17年)4月30日に行われた日本の衆議院議員の選挙である。
概説
第二次世界大戦(太平洋戦争(大東亜戦争))下で行われた唯一の国政選挙であり、一般に翼賛選挙(よくさんせんきょ)の名称で呼ばれる。
1940年、既に結社を禁止されていた勤労国民党や右翼政党の東方会、立憲養正会などを除く全ての政党が自発的に解散し、大政翼賛会に合流していた。その後、大政翼賛会に率先して合流した政治家たちによって翼賛議員同盟が結成され、太平洋戦争(大東亜戦争)下での軍部の方針を追認する翼賛体制を支える機能を果たした。
1937年の前回総選挙で選出された衆議院議員の任期は1941年の衆議院議員任期延長ニ関スル法律によって1年延長の措置が第二次近衛内閣によってとられていた。対米英戦時下であり、万が一にも反政府的勢力の伸張をみれば敵国に「民心離反」と喧伝される虞もある、等の理由から任期の再延長を求める声もあった[1]が、これを契機に旧来の政党色を排除して軍部に協力的な政治家だけで議会を占め、翼賛体制を強化する好機との意見がその懸念を凌駕した。
そこで内務省のいわゆる「革新官僚」から、既に一部の地方の首長や議員に対して行われていた政府や軍の主導(表向きは「大政翼賛会」)による「推薦候補」制度を導入して官民一体の支援を行い、国策に忠実な議員のみによって形成される新しい議会制度を確立するという、自由選挙に代わる新しい選挙原理を導入すべきであるとの提案が行われて、実施されることとなった。
1942年2月23日には元首相の阿部信行を会長に戴いた翼賛政治体制協議会が結成され、協議会が中心となって予め候補者議員定数いっぱいの466人を選考・推薦していった。もっとも既成政党出身者全てを排除することは実際には不可能であり、既成政党出身の前職の推薦に翼賛会内部の革新派が反発する動きもあった。
推薦を受けた候補者は選挙資金(臨時軍事費として計上)の支給を受け、更に軍部や大日本翼賛壮年団(翼壮)をはじめとする様々な団体から支援を受け選挙戦でも有利な位置に立ったのに対し、推薦を受けられなかった候補者は(有力な議員や候補者であっても)立候補そのものを断念させられた場合(例、鈴木文治、浅沼稲次郎)や、選挙運動において候補者や支持者に対して有形無形の干渉を受けたケースが知られており、全体として選挙の公正さに著しく欠けるものだった。
そこから、日本以外の選挙についても与党または親与党(親政府)の候補しか出馬を許されない、あるいは反政府候補が選挙妨害を受ける選挙についても翼賛選挙と表現されることがある[要出典]。
協議会を中心とした軍官民の協力体制に加えて当時はまだ日本軍優勢で戦況が進んでいた事も追い風となったこともあり、全国平均83.1%(1930年の濱口内閣の総選挙の投票率には0.2ポイント及ばず)という高投票率に支えられて、協議会推薦の候補者は461人中381人が当選し、全議席の81.8%を獲得。その一方で、非推薦の候補者も85人が当選し、非推薦候補の得票を合計すると35%近い得票を集めた。推薦候補が全員当選した県は、岩手、群馬、埼玉、石川、長野、滋賀、鳥取、長崎、熊本、大分、宮崎、鹿児島の12県だった。一方、推薦候補が定数の半数未満しか当選できなかった選挙区は青森2区・兵庫5区・香川1区(いずれも定数3人中1人当選)の3選挙区あった。
非推薦候補の中には戦後の政局を動かすキーマンが少なからずいた。また、非推薦で立候補して落選した候補者も、戦後の公職追放令により現職議員が多数追放されたため、追放された政治家に代わって戦後政界でその存在を高めたものも多かった。なお、半数余りは前職議員の再選であり、旧来の政党政治を排除という目的は完全には果たされなかった。
選挙データ
内閣
解散日
- 任期満了
- 1942年(昭和17年)4月30日
- 任期1年延長
解散名
- 翼賛選挙
投票日
- 1942年(昭和17年)4月30日
改選数
- 466
選挙制度
- 中選挙区制
- 3人区(単記投票) - 53
- 4人区(単記投票) - 38
- 5人区(単記投票) - 31
- 秘密投票
- 25歳以上の男性
- 有権者 14,594,287
その他
- 立候補者 1,077
選挙結果
投票率
- 83.16% (前回比+9.85%)
党派別獲得議席
政党名 | 議席数 | 議席内訳 |
---|---|---|
翼賛政治体制協議会 推薦 |
381 | |
非推薦 | 85 | |
合計 | 466 |
政党
備考
- なお、この選挙で当選した代議士のうち、太平洋戦争において死亡したのは、加藤鯛一・助川啓四郎・小川郷太郎・古屋慶隆・森田福市・古田喜三太・田中勝之助[2]・小野祐之[3]・松岡秀夫[4]・卯尾田毅太郎・古河和一郎・蔵原敏捷・青木精一の計13名である。このうち、加藤・助川・小川は乗船の撃沈[5]、青木・古屋は東京大空襲、森田・古田・田中は広島市への原子爆弾投下[6]、小野・松岡は戦死、卯尾田・古河・蔵原は空襲によるものである。また、間宮成吉[7]は次の総選挙までに未帰還で議員に復帰できなかった。
- 5つの選挙区(福島県第2区・長崎県第1区・鹿児島県第1区・鹿児島県第2区・鹿児島県第3区)では選挙無効の訴えが起こされ、内4選挙区では訴えが棄却されるが、鹿児島県第2区については1945年(昭和20年)3月1日に大審院第三民事部(吉田久裁判長、陪席判事は森田豊次郎・武富義雄・松尾實友・梶田年)は、裁判において鹿児島県第2区で推薦候補者を当選させようとする不法な選挙運動が全般かつ組織的に行われた事実を認定し、「自由で公正な選挙ではなく、規定違反の選挙は無効となる旨を定めた衆議院議員選挙法第八十二条に該当する」として選挙無効として選挙のやり直しを命じる判決を出し、それとともに「翼賛選挙は憲法および選挙法の精神に照らし大いに疑問がある」と指摘して国を厳しく批判した(鹿児島2区選挙無効事件)。
当選者
選挙区別当選者
翼賛政治体制協議会推薦 非推薦
補欠当選
- 富山県第1区 井村荒喜(1942.8.24辞職)→赤間徳寿(1942.9.11繰上補充)
- 東京府第6区 山田清(1942.12.28死去)→浜野清吾(1943.1.13繰上補充)
- 東京府第1区 大神田軍治(1943.1.24死去)→原玉重(1943.1.28繰上補充)
- 茨城県第1区 内田信也(1943.7.1宮城県知事に就任)→柳川宗左衛門(1943.12.23補欠当選)
- 茨城県第1区 豊田豊吉(1943.11.11死去)→中崎俊秀(1943.12.23補欠当選)
- 沖縄県全県 湧上聾人(1944.4.4選挙法違反)→崎山嗣朝(1944.6.6再選挙当選)
- 佐賀県第2区 松岡平市(1944.11.29選挙法違反)→保利茂(1945.1.10再選挙当選)
- 鹿児島県第2区 浜田尚友、原口純允、東郷実、寺田市正(1945.3.1当選無効)→浜田尚友、原口純允、東郷実、寺田市正(1945.3.20再選挙当選)
旧党派別当選者
推薦候補者
旧立憲政友会
当選者129名
旧立憲民政党
当選者130名
旧社会大衆党
当選者5名
旧昭和会
当選者9名
旧国民同盟
当選者6名
旧東方会
当選者2名
その他
当選者100名
非推薦候補
主な当選者のみを掲げる。
- 山口喜久一郎(戦後、衆議院議長他)
- 正木清(戦後、衆議院副議長)
- 坂東幸太郎(戦後、民主党代議士)
- 北勝太郎(北修二の父。戦後、日本協同党代議士、参議院議員)
- 小笠原八十美(戦後、自由党代議士)
- 楠美省吾(戦後、日本民主党代議士)
- 庄司一郎(戦後、自由党代議士)
- 菊地養之輔(旧社会大衆党所属。戦後、社会党代議士)
- 中川重春(戦後、男鹿市長)
- 川俣清音(川俣健二郎の養父。戦後、社会党代議士)
- 木村武雄(戦後、行政管理庁長官)
- 池田正之輔(戦後、科学技術庁長官)
- 加藤宗平(戦後、自由党代議士)
- 星一(戦後、日本進歩党代議士、参議院議員)
- 川崎巳之太郎(旧立憲政友会所属。北米日報主筆)
- 菅又薫(戦後、日本進歩党代議士)
- 河野密(戦後、社会党副委員長)
- 川島正次郎(戦後、自治庁長官・行政管理庁長官、自民党副総裁)
- 成島勇(戦後、日本進歩党代議士)
- 鳩山一郎(鳩山威一郎の父、鳩山由紀夫・鳩山邦夫の祖父。元文部大臣。戦後、内閣総理大臣)
- 安藤正純(戦後、文部大臣)
- 本多市郎(戦後、国務大臣)
- 花村四郎(戦後、法務大臣)
- 赤尾敏(右翼活動家。戦後、大日本愛国党を結成)
- 河野一郎(河野謙三の兄、河野洋平の父、河野太郎の祖父。戦後、農林大臣・建設大臣)
- 北昤吉(北一輝の実弟。戦後、自由党代議士)
- 三宅正一(戦後、衆議院副議長)
- 中村又七郎(戦後、糸魚川市長)
- 薩摩雄次(戦後、改進党代議士)
- 平野力三(戦後、農林大臣)
- 三田村武夫(戦後、自民党代議士)
- 川崎克(旧立憲民政党所属。川崎秀二の父、川崎二郎の祖父)
- 尾崎行雄(元東京市長・司法大臣。戦後、無所属)
- 田中伊三次(戦後、国務大臣、法務大臣)
- 水谷長三郎(戦後、商工大臣・社会党右派の重鎮)
- 芦田均(戦後、外務大臣・内閣総理大臣)
- 西尾末広(戦後、内閣官房長官・民主社会党を結成)
- 一松定吉(戦後、国務大臣)
- 笹川良一(笹川堯の父。右翼活動家。戦後、日本船舶振興会で活動)
- 斎藤隆夫(反軍演説で除名。戦後、国務大臣)
非推薦で落選したが、戦後浮上した政治家
- 赤松克麿(日本国家社会党・国民協会で活動。戦後、日本産業協力連盟理事長)
- 椎熊三郎(戦後、衆議院副議長)
- 山崎岩男(山崎竜男の父、山崎力の祖父。戦後、日本自由党代議士、青森県知事)
- 只野直三郎(戦後、日本人民党党首)
- 大石倫治(大石武一の父、大石正光の祖父。戦後、自由党代議士)
- 内海安吉(内海英男の父。戦後、自民党代議士)
- 林平馬(戦後、国務大臣)
- 齋藤晃(戦後、立憲養正会代議士)
- 戸叶武(戸叶里子の夫。戦後、社会党参議院議員)
- 臼井荘一(臼井日出男の父。戦後、総理府総務長官)
- 初代・山村新治郎(二代目・山村新治郎の父。戦後、行政管理庁長官)
- 原彪之助(戦後、衆議院副議長・社会党代議士)
- 広川弘禅(戦後、農林大臣)
- 中村高一(戦後、衆議院副議長・社会党代議士)
- 片山哲(戦後、社会党委員長・内閣総理大臣)
- 綿貫佐民(綿貫民輔の父。戦後、日本自由党代議士)
- 益谷秀次(戦後、建設大臣・衆議院議長)
- 宮沢胤勇(戦後、運輸大臣)
- 植原悦二郎(元衆議院副議長。戦後、国務大臣)
- 大野伴睦(大野明の父、大野つや子の義父。戦後、衆議院議長・自民党副総裁)
- 加藤鐐造(戦後、社会党代議士)
- 辻寛一(戦後、自民党代議士)
- 河野金昇(戦後、改進党代議士)
- 森幸太郎(戦後、農林大臣・滋賀県知事)
- 矢尾喜三郎(戦後、社会党代議士)
- 草野一郎平(戦後、自民党代議士)
- 中山福蔵(旧立憲民政党所属。中山マサの夫、中山太郎・中山正暉の父、中山泰秀の祖父。戦後、参議院議員)
- 田中萬逸(戦後、衆議院副議長)
- 永江一夫(戦後、農林大臣)
- 米窪満亮(戦後、労働大臣)
- 北浦圭太郎(戦後、民主党代議士。斎藤隆夫の議員除名に反対)
- 世耕弘一(世耕政隆・世耕弘昭の父、世耕弘成の祖父。戦後、経済企画庁長官)
- 高橋英吉(戦後、自民党代議士)
- 林譲治(戦後、副総理・衆議院議長)
- 佐竹晴記(戦後、社会党代議士)
- 伊藤卯四郎(戦後、民社党副委員長)
- 稲富稜人(戦後、民社党代議士)
- 田原春次(戦後、社会党代議士)
- 西岡竹次郎(西岡武夫の父。戦後、長崎県知事)
- 上林山栄吉(戦後、防衛庁長官)
- 井上知治(戦後、衆議院副議長)
- 冨吉榮二(戦後、逓信大臣、洞爺丸事故で遭難)
- 二階堂進(戦後、自民党副総裁)
- 工藤鉄男(戦後、国務大臣)
- 松岡駒吉(戦後、衆議院議長)
- 児玉誉士夫(右翼活動家。政財界の黒幕。ロッキード事件の当事者)
脚註
- ^ 日中戦争が長引く中では、国民の不安や不満が噴出することを恐れた。(吉田裕『アジア・太平洋戦争』シリーズ日本近現代史⑥ 岩波書店 〈岩波新書1047〉 2007年 72ページ)
- ^ 臨時召集を受け1944年7月15日に議員を退職した。『官報』第5254号、昭和19年7月20日。
- ^ 臨時召集を受け1944年4月1日に議員を退職した。『官報』第5169号、昭和19年4月10日。
- ^ 臨時召集を受け1943年12月4日に議員を退職した。『官報』第5076号、昭和18年12月13日。
- ^ 小川については阿波丸事件を参照のこと。
- ^ 森田・古田は地元選出、田中は召集中であった。
- ^ 臨時召集を受け1943年12月22日に議員を退職した。『官報』第5036号、昭和18年10月25日。
参考文献
- 『衆議院議員総選挙一覧.第21回』衆議院事務局、1943年。NDLJP:1351321
- 古川隆久『戦時議会』(吉川弘文館、2001年) ISBN 4642066586
- 古川隆久『昭和戦中期の議会と行政』(吉川弘文館、2005年) ISBN 4642037713
- 日本国会年鑑編纂会監修『日本國會百年史』(中巻)(国会百年史刊行会、1983年)
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
関連項目
外部リンク
- 『ザ・選挙』第21回衆議院議員選挙 ※ 現在はインターネットアーカイブ内に残存
- 衆議院議員総選挙対策翼賛選挙貫徹運動基本要綱 (国立国会図書館『リサーチ・ナビ』)