田中藤作
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田中 藤作(たなか とうさく、1898年(明治31年)2月20日[1][2] - 1979年(昭和54年)11月21日[3])は、大正末から昭和期の弁護士、政治家。衆議院議員。
経歴
[編集]大阪府[3]河内郡[4]で、田中秀吉の長男として生まれる[2][5]。1921年(大正10年)関西大学専門部法律科を卒業した[2][3][4][5]。
1922年(大正11年)弁護士を開業[2][5]。1931年(昭和6年)大阪府会議員に選出され[2][5]3期在任し[4]、同副議長も務めた[2][3][4][5]。1937年(昭和12年)大阪市会議員に当選[2][3][4][5]。その他、南方経済協会理事長、高津町会連合会長、高津警防団長、三和信用組合理事長なども務めた[3][4]。
1942年(昭和17年)4月の第21回衆議院議員総選挙で大阪府第2区から翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬して当選[2][5][6]。大政翼賛会大阪府支部参与、翼賛政治会政調幹事、司法委員、商工兼務委員などを務めた[2][3][4]。戦後、無所属倶楽部に所属し[3]、衆議院議員に1期在任[3][4]。その後、公職追放となった[7][注 1]。追放解除後は国政選挙に立候補したが、落選続きで政界復帰はならなかった。
国政選挙歴
[編集]- 第21回衆議院議員総選挙(大阪府第2区、1942年4月、推薦)当選[6]
- 第25回衆議院議員総選挙(大阪府第1区、1952年10月、自由党)落選[8]
- 第26回衆議院議員総選挙(大阪府第1区、1953年4月、鳩山自由党)落選[8]
- 第27回衆議院議員総選挙(大阪府第1区、1955年2月、日本民主党)次点落選[9]
- 第28回衆議院議員総選挙(大阪府第1区、1958年5月、自由民主党)落選[9]
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 公職追放の該当事項は「推薦議員」。
出典
[編集]- ^ 衆議院『第八十回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1942年、4頁。
- ^ a b c d e f g h i 『大衆人事録 第14版 近畿・中国・四国・九州篇』大阪138頁。
- ^ a b c d e f g h i 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』360頁。
- ^ a b c d e f g h 『翼賛議員銘鑑』228頁。
- ^ a b c d e f g 『人事興信録 第14版 下』タ44頁。
- ^ a b 『衆議院議員総選挙一覧 第21回』351頁。
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、一般該当者名簿654頁。
- ^ a b 『国政選挙総覧 1947-2016』254頁。
- ^ a b 『国政選挙総覧 1947-2016』255頁。
参考文献
[編集]- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第21回』衆議院事務局、1943年。
- 『翼賛議員銘鑑』議会新聞社、1943年。
- 人事興信所編『人事興信録 第14版 下』人事興信所、1943年。
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第14版 近畿・中国・四国・九州篇』帝国秘密探偵社、1943年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『国政選挙総覧:1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。