田中伊三次
田中 伊三次 たなか いさじ | |
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生年月日 | 1906年1月3日 |
出生地 | 京都府 |
没年月日 | 1987年4月11日(81歳没) |
出身校 | 立命館大学法学部 |
前職 | 弁護士 |
所属政党 |
(無所属倶楽部→) (民主党→) (自由党→) (自由民主党→) 無所属 |
称号 |
正三位 勲一等旭日大綬章 衆議院永年在職議員 法学博士 |
第22-23・31代 法務大臣 | |
内閣 |
第1次佐藤第3次改造内閣 第2次佐藤内閣 第2次田中角栄内閣 |
在任期間 |
1966年12月3日 - 1967年11月25日 1972年12月22日 - 1973年11月25日 |
第44代 衆議院副議長 | |
在任期間 | 1963年12月7日 - 1965年12月20日 |
第7-8代 自治庁長官 | |
内閣 |
石橋内閣 第1次岸内閣 |
在任期間 | 1956年12月23日 - 1957年7月10日 |
選挙区 | 旧京都1区 |
当選回数 | 15回 |
在任期間 |
1942年5月1日 - 1947年3月31日 1949年1月24日 - 1983年11月28日 |
田中 伊三次(たなか いさじ、1906年(明治39年)1月3日 - 1987年(昭和62年)4月11日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(15期)。位階は正三位、勲章は勲一等旭日大綬章。
衆議院副議長(第44代)、法務大臣(第22・23・31代)、自治庁長官(第7・8代)等を歴任した。
来歴
[編集]京都府京都市上京区新烏丸に生まれた[1]。兵庫県・宗吉の二男[2]。立命館中学、府立第二中学校を経て立命館大学に入学した[1]。1931年、高等文官試験に合格[3]。弁護士試験に合格、登録した[1]。
1934年、立命館大学法学部を卒業[4]。弁護士を開業した[2]。京都市会議員、京都府議会議員を経て、1942年の第21回衆議院議員総選挙で衆議院議員に初当選した。この選挙では、多くの議員が大政翼賛会の推薦を受けた(翼賛選挙)が、田中は非推薦で当選した。戦後に公職追放されたが、1949年に復活、通算15期[4]。
無所属倶楽部、民主党、自由党を経て、1955年の保守合同により自由民主党の結党に参加した。自民党では緒方派→石井派に所属し、石井派が解散した後には三木派に加わった。
1956年、石橋内閣で自治庁長官に任命されるが石橋湛山は間もなく病気で首相を辞任、後継の岸信介による第1次岸内閣でも自治庁長官に留任した。1963年、衆議院議長・船田中の下、衆議院副議長に就任し、1965年まで約2年間務める。
1966年、第1次佐藤第3次改造内閣で法務大臣に任命され、2度目の入閣。第2次佐藤内閣でも留任し、1972年には第2次田中角栄内閣で再度、法務大臣に就任している。
1976年、ロッキード事件の調査のために衆議院に設置されたロッキード問題調査特別委員会の委員長に就任し、児玉誉士夫を臨床尋問。事件に関与した疑いの強い灰色高官の氏名を公表した。
1980年、ハプニング解散に際しては首相の大平正芳や大平政権に強い影響力を有していた田中角栄に対する反対姿勢を鮮明にし、自民党からの公認を拒否した上で自民党を離党した[5]。1983年、第37回衆議院議員総選挙に出馬せず政界を引退し、田中の地盤は元大蔵官僚の伊吹文明が継承した。
1987年(昭和62年)4月11日に81歳で没した。
人物
[編集]人柄
[編集]- 戦前に田中は、「天皇帰一の大精神を国民生活に顕現し、以て臣民思想の一大統一を計りたい」、「大東亜戦争を勝ち抜くため日本的全体主義によって世界最強度の国防国家体制を作りあげることでなければならぬと信ずる」と政見を述べていた[1]。
- 住所は京都市上京区新烏丸頭町[1]、同市上京区寺町通丸太町上る松蔭町[3]。趣味は乗馬[2]、能楽、茶道(織部流)、古美術鑑賞、音楽[3]。
- 第1次岸内閣において自治庁長官を命ぜられた際、「内務大臣といえば副総理格が座ったもんだ。その嫡流とも言うべき役所の長を三流省庁並みの〝長官〟と呼ぶのはけしからん」と怒って、勝手に呼称を〝大臣〟に変えさせている[6]。
死刑制度に対する姿勢
[編集]- 法務大臣在任中の1967年10月13日、大臣室に新聞記者を集め、数珠を片手にポーズを構えて23人分の死刑執行命令書に署名し、記事にするよう求めた。この行動は記者たちを呆れさせ、どの新聞社も記事にしなかった[注釈 1]。しかし、提出された死刑執行命令書の中に平沢貞通の名前を見つけた時には「これ(平沢)は冤罪だろ」として署名しなかった。
金大中拉致事件
[編集]- 法務大臣在任中の1973年8月に発生した金大中拉致事件に関して、同月23日の参議院法務委員会において「私たちには大事な第六感というものがあるわけで、その第六感によれば、この国に違いない、この国の秘密警察がやったことに違いがないというようなところまでは胸の中に浮かんでおるわけで…」と発言し[10][11]、この大韓民国中央情報部(KCIA)の関与を示唆する「第六感」発言が物議を醸した[12]。
家族・親族
[編集]- 田中家
著作
[編集]著書
[編集]- 『新憲法の解明』扶桑閣、1946年10月。
- 『理想主義政治学の原理』伸工社、1947年。
- 新日本建設青年連盟編輯 編「防共対策について」『共産主義批判』新日本建設青年連盟〈青年におくるシリーズ 第1集〉、1949年10月。
- 『憲法の心 新憲法の基本原則』三和書房、1952年3月。
博士論文
[編集]- 『理想主義政治学ノ理論構成ニ関スル研究』立命館大学、1949年4月。
論文等
[編集]- 「理想主義政治学序論」『時論』第4巻第6・7号、時論社、1949年7月、66-70頁、NAID 40001878627。
- 「憲法を改正しなければ自衛のためと雖、兵力は持てない」『政策』第1巻第11号、政策研究会、1953年11月、18-22頁、NAID 40002039974。
- 「日ソ交渉、中共貿易を質す」『再建』第9巻第5号、再建編集局、1955年6月、20-29頁、NAID 40001430791。
- 「灰色高官の公表は当然〔衆議院ロッキード問題調査特別委員長に聞く〕(この人と1時間)」『エコノミスト』第54巻第48号、毎日新聞社、1976年11月、22-25頁、NAID 40000226344。
- 「総裁選挙を立派にやり抜こう(巻頭言)」『月刊自由民主』第274号、自由民主党、1978年11月、15-17頁、NAID 40003979795。
- 「会議の報告から(金大中氏の生命を憂慮する緊急国際会議)」『世界』第423号、岩波書店、1981年2月、301-305頁、NAID 40002101931。
- 「鈴木首相の責任を問う(金権腐敗を一掃するために――衆参両院政治倫理確立議員懇談会合同演説会――昭和57年7月29日(資料))」『月刊新自由クラブ』第6巻第62号、新自由クラブ、1982年9月、119-123頁、NAID 40004172284。
- 「「田中有罪判決」の根拠――函館市における演説(反金権直撃キャンペーン<特集>)」『月刊新自由クラブ』第6巻第64号、新自由クラブ、1982年12月、56-59頁、NAID 40004172316。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e 『翼賛議員銘鑑』223頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年2月5日閲覧。
- ^ a b c d e 『人事興信録 第14版 下』タ20頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年7月21日閲覧。
- ^ a b c d e 『大衆人事録 第二十三版 西日本編』た488頁。
- ^ a b 田中 伊三次とはコトバンク。2016年2月7日閲覧。
- ^ この選挙では自民党が大勝した。また田中自身も15回目の当選を果たした。
- ^ 神一行 『自治官僚』 講談社 p.124
- ^ 勢藤修三『死刑の考現学』三省堂、1983年、89-91頁。
- ^ 俵孝太郎『政治家の風景』学習研究社、1994年、95頁。
- ^ 勢藤修三『死刑の考現学』三省堂、1983年。
- ^ 参議院会議録情報 第071回国会 法務委員会 第17号 昭和四十八年八月二十三日
- ^ 『朝日新聞』1973年8月24日朝刊1頁『「某国機関の犯行」法相答弁』
- ^ 『毎日新聞』1973年8月24日夕刊 9頁「脅迫電話が相次ぐ-田中法相らの身辺を警護」
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第14版 下』人事興信所、1943年。
- 『翼賛議員銘鑑』議会新聞社、1943年。
- 広瀬弘『大衆人事録 第二十三版 西日本編』帝国秘密探偵社、1963年。
- 勢藤修三『死刑の考現学』三省堂、1983年。
- 『政治家人名事典』日外アソシエーツ、1990年。
- 俵孝太郎『政治家の風景』学習研究社、1994年。
議会 | ||
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先代 原健三郎 |
衆議院副議長 第44代:1963年 - 1965年 |
次代 園田直 |
先代 島田末信 |
衆議院労働委員長 1952年 - 1953年 |
次代 赤松勇 |
先代 星島二郎 |
衆議院人事委員長 1950年 - 1951年 |
次代 田中不破三 |
公職 | ||
先代 郡祐一 石井光次郎 |
法務大臣 第31代:1972年 - 1973年 第22・23代:1966年 - 1967年 |
次代 中村梅吉 赤間文三 |
先代 太田正孝 |
自治庁長官 第7・8代:1956年 - 1957年 |
次代 郡祐一 |