コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

天野公義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
天野 公義
あまの きみよし
生年月日 1921年3月2日
出生地 大日本帝国の旗 大日本帝国 東京府北豊島郡
没年月日 (1990-07-29) 1990年7月29日(69歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京都文京区 順天堂大学医学部附属順天堂医院
出身校 東京帝国大学 / 東京大学
所属政党民主自由党→)
自由党→)
自由民主党
称号 正三位
勲一等旭日大綬章
親族 天野頼義(父)

内閣 三木改造内閣
在任期間 1976年9月15日 - 1976年12月24日

選挙区 旧東京6区
当選回数 11回
在任期間 1949年1月24日 - 1952年8月28日
1953年4月20日 - 1955年1月24日
1958年5月23日 - 1976年12月9日
1979年10月8日 - 1983年11月28日
1986年7月7日 - 1990年1月24日
テンプレートを表示

天野 公義(あまの きみよし、1921年3月2日1990年7月29日)は、日本政治家自治大臣(第24代)、国家公安委員会委員長(第33代)、北海道開発庁長官(第38代)、衆議院議員(11期)。戦前に東京府会議員を務めた天野頼義は父[1]

来歴・人物

[編集]

東京府北豊島郡日暮里町(現在の東京都荒川区)生まれ。旧制府立高校を経て、東京帝国大学文学部に入学。在学中はア式蹴球部(サッカー部)に入部。1941年には同部の主将を務めて[2][3]関東大学リーグで優勝も経験した。また、倫理学科では和辻哲郎の門下生であった[4]

卒業後に同盟通信社の記者となったが、戦後の1946年1947年と総選挙に立候補して共に落選。吉田茂の首相秘書官の傍ら、東京大学法学部に在籍した[4]

1949年第24回衆議院議員総選挙民主自由党公認で東京6区(当時)から初当選。以後、当選11回するが、落選は7回も経験。

保守合同後は宏池会池田勇人前尾繁三郎大平正芳鈴木善幸宮澤喜一派)に所属。文部大蔵の各政務次官を経て、1976年三木内閣改造内閣自治大臣国家公安委員会委員長北海道開発庁長官として初入閣するが、同年に行われた総選挙で、現職閣僚ながら落選した。1989年予算案の与党単独採決に抗議して河野洋平鯨岡兵輔らと共に本会議欠席。1990年の総選挙で落選後、政界を引退した。

1990年7月29日東京都文京区順天堂大学医学部附属順天堂医院で急性心不全により死去した[5]。死没日をもって勲一等旭日大綬章追贈、従七位から正三位に叙される[6]。1990年9月11日、自由民主党葬が青山葬儀所で行われた[7]

脚注

[編集]
  1. ^ 人事興信所編『人事興信録 第14版 上』人事興信所、1943年、ア116頁。
  2. ^ 「三木改造内閣 新任閣僚の横顔」朝日新聞、1976年9月16日、2014年10月3日閲覧
  3. ^ 東大ア式蹴球部の歴史 (PDF) 」2014年10月3日閲覧
  4. ^ a b 「これだけはやりたい 主な候補者に聞く」朝日新聞、1990年2月8日、2014年10月3日閲覧
  5. ^ 「天野公義氏 死去」 朝日新聞、1990年7月30日、2014年10月3日閲覧
  6. ^ 『官報』第437号4-5頁 平成2年8月13日号
  7. ^ 「故天野公義氏の党葬」 読売新聞、1990年8月13日、2014年10月3日閲覧

関連項目

[編集]
議会
先代
佐々木良作
日本の旗 衆議院懲罰委員長
1986年 - 1987年
次代
渡辺栄一
先代
藤田義光
日本の旗 衆議院内閣委員長
1970年 - 1971年
次代
伊能繁次郎
先代
内田常雄
日本の旗 衆議院商工委員長
1966年
次代
島村一郎
公職
先代
福田一
日本の旗 自治大臣
第24代:1976年
次代
小川平二
先代
福田一
日本の旗 国家公安委員会委員長
第33代:1976年
次代
小川平二
先代
福田一
日本の旗 北海道開発庁長官
第38代:1976年
次代
小川平二
名誉職
先代
織田正信
最年少衆議院議員
1949年 - 1952年
次代
辻原弘市