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則元由庸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
則元由庸
のりもと なおつね
生年月日 1862年3月21日
出生地 日本の旗 日本 肥後国
(現・熊本県
没年月日 (1931-08-06) 1931年8月6日(69歳没)
出身校 明治法律学校中退[注釈 1]
(現・明治大学
前職 弁護士
所属政党立憲政友会→)
政友本党→)
立憲民政党
称号 従五位
勲三等

選挙区 (長崎県郡部選挙区→)
(長崎県第3選挙区→)
長崎県第1選挙区
当選回数 7回
在任期間 1912年 - 1914年12月25日
1916年 - 1920年2月26日
1923年 - 1931年8月6日

第9・12代 長崎市会議長
在任期間 1901年3月11日 - 1908年1月14日
1909年1月21日 - 1910年4月8日

長崎市会議員
在任期間 1899年 - ?
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則元 由庸(のりもと なおつね、1862年3月21日文久2年2月21日[1]1931年昭和6年〉8月6日[2])は、日本の政治家弁護士。勲等は勲三等[3]。位階は従五位[3]

略歴

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熊本市生まれ[4]明治法律学校(現・明治大学)中退[5][注釈 1]

長崎県で弁護士を開業し、1899年明治32年)長崎市会議員となった[4]1901年(明治34年)3月11日から1908年(明治41年)1月14日までと、1909年(明治42年)1月21日から1910年(明治43年)4月8日までの2度に亘り、市会議長を務める[7]

また、国政にも進出し、1912年(明治45年)に衆議院議員となり、以後、立憲民政党などから計7回当選する。

1917年(大正6年)に長崎日日新聞社長に就任した[3]。そのほか、九州鉄道や九州瓦斯の取締役、長崎電灯の監査役となった[注釈 2][2][3]

1931年、死去。70歳。

出典

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注釈

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  1. ^ a b 『長崎市制五十年史』519コマには卒業とあるが[4]、『昭和十二年十一月 明治大学一覧』264コマによれば、1899年(明治32年)推薦校友である[6]
  2. ^ 両社はその後、合併したが、現在は電気は九州電力、ガスは西部ガスが引き継いでいる

脚注

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  1. ^ 『第拾壱回改選 代議士銘鑑』、国華新聞社、1912年。
  2. ^ a b 議会制度百年史 衆議院議員名鑑 280コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  3. ^ a b c d 長崎市制五十年史 520コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  4. ^ a b c 長崎市制五十年史 519コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  5. ^ 明治大学史資料センター『明治大学小史―人物編』 学文社、2011年、92頁
  6. ^ 明治大学一覧 : 付・卒業生年度別 昭和12年11月 264コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  7. ^ 長崎市│歴代市長等”. www.city.nagasaki.lg.jp. 2024年2月17日閲覧。

外部リンク

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