山崎猛 (政治家)
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山崎 猛 やまざき たけし | |
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生年月日 | 1886年6月15日 |
出生地 | 日本 茨城県水戸市 |
没年月日 | 1957年12月27日(71歳没) |
出身校 | 旧制第一高等学校中退 |
前職 | 新聞社社長 |
所属政党 |
(立憲政友会→) (日本自由党→) (民主自由党→) 自由党 |
第38代 衆議院議長 | |
在任期間 | 1946年8月24日 - 1947年3月31日 |
天皇 | 昭和天皇 |
第2代 経済審議庁長官 | |
内閣 | 第3次吉田第3次改造内閣 |
在任期間 | 1952年9月2日 - 1952年10月30日 |
第13代 運輸大臣 | |
内閣 |
第3次吉田第1次改造内閣 第3次吉田第2次改造内閣 |
在任期間 | 1950年6月28日 - 1951年12月26日 |
選挙区 |
茨城県全県区 茨城県第2区 |
当選回数 | 3回(計10回) |
在任期間 | 1946年 - 1955年 |
選挙区 |
茨城県第?区 茨城県第2区 |
当選回数 | 7回 |
在任期間 | 1920年 - 1937年 |
その他の職歴 | |
民主自由党幹事長 (1948年 - 1948年) |
山崎 猛(やまざき たけし、1886年(明治19年)6月15日 - 1957年(昭和32年)12月27日)は、日本の政治家。
概要
[編集]茨城県水戸市出身。旧制第一高等学校を中退した後、代用教員から徳富蘇峰の招きで京城日報の記者に。さらに大連へ移って満洲日報社長を務める。
1920年の総選挙で立憲政友会公認で総選挙に出馬し初当選、以後衆院議員を10期務め廣田内閣では農林政務次官に就任。戦後の1946年には、旧憲法下では最後の衆議院議長を務めている。この間1923年から1年間水戸市長も兼任している。
戦後は日本自由党を経て1948年に民主自由党幹事長となるが、芦田内閣が昭和電工事件から総辞職するとGHQ民政局の打診を受けて山口喜久一郎・星島二郎など党反主流派から首相就任を求められる。しかし松野鶴平の意を受けた政友会時代からの同僚議員だった益谷秀次や林譲治から説得を受ける格好で自ら議員を辞職、首相就任を固辞する格好になった(山崎首班工作事件)。このため翌年の総選挙で国政復帰すると、選挙を受けて成立した第3次吉田内閣で運輸大臣に、1951年には第3次吉田第3次改造内閣で経済審議庁長官にそれぞれ起用されている。
人物
[編集]家族・親族
[編集]- 山崎家
脚注
[編集]- ^ a b c 『人事興信録 第15版 下』ヤ21頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年3月7日閲覧。
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第15版 下』人事興信所、1948年。
議会 | ||
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先代 樋貝詮三 |
衆議院議長 第38代:1946年 - 1947年 |
次代 松岡駒吉 |
先代 田口文次 |
衆議院決算委員長 | 次代 丹下茂十郎 |
先代 谷原公 |
衆議院懲罰委員長 | 次代 本田英作 |
公職 | ||
先代 大屋晋三 |
運輸大臣 第13代:1950年 - 1951年 |
次代 村上義一 |
先代 周東英雄 |
経済審議庁長官 第2代:1952年 |
次代 池田勇人 |
党職 | ||
先代 結党 |
民主自由党幹事長 初代:1948年 |
次代 広川弘禅 |
官職 | ||
先代 川田久喜 |
茨城県水戸市長 官選第7代:1923年 - 1924年 |
次代 鈴木文次郎 |