秋田清
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秋田 清 あきた きよし | |
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秋田清の肖像写真 | |
生年月日 | 1881年8月29日 |
出生地 | 日本・徳島県三好郡足代村 |
没年月日 | 1944年12月3日(63歳没) |
死没地 | 日本・東京都赤坂区表町 |
出身校 |
日本法律学校 東京法学院 |
前職 | 司法官・ジャーナリスト |
所属政党 |
(立憲同志会→) (立憲国民党→) (革新倶楽部→) (立憲政友会→) (無所属→) 翼賛政治会 |
称号 | 勲一等瑞宝章 |
配偶者 | 秋田 たま子 |
親族 | 長男・秋田大助(法務大臣・自治大臣) |
第19代 拓務大臣 | |
内閣 | 第2次近衛内閣 |
在任期間 | 1940年9月28日 - 1941年7月18日 |
第4代 厚生大臣 | |
内閣 | 阿部内閣 |
在任期間 | 1939年11月29日 - 1940年1月16日 |
第30代 衆議院議長 | |
在任期間 | 1932年3月18日 - 1934年12月12日 |
天皇 | 昭和天皇 |
選挙区 |
(徳島県郡部区→) (徳島県第6区→) 徳島県第2区 |
当選回数 | 10回 |
在任期間 | 1912年5月15日 - 1944年12月3日 |
秋田 清(あきた きよし、1881年(明治14年)8月29日 - 1944年(昭和19年)12月3日)は、日本の政治家。第30代衆議院議長[1]、厚生大臣、拓務大臣を務めた。
来歴・人物
[編集]徳島県出身。旧制徳島中学(現・徳島県立城南高等学校)、日本法律学校(現・日本大学)、東京法学院(現・中央大学)卒業。高知地方裁判所の判事、二六新報の編集および社長職を経て政界入り[2]。1932年、衆議院議長に就任。1937年、内閣参議に就任。1939年、阿部内閣で厚生大臣に就任。1940年、第2次近衛内閣で拓務大臣に就任。1944年12月3日死去。
栄典
[編集]備考
[編集]- 政界の裏表に精通し、「策士」と称された。
- 政界入りしたときの所属政党は立憲国民党。その後革新倶楽部を経て立憲政友会に属したが、衆議院議長在任中に政友会を離党して無所属となり、その後は院内では小会派の第一議員倶楽部に属した。
- 日本法律学校在学中は弁論部で活躍した。
家族
[編集]脚注
[編集]出典
[編集]- ^ “衆議院歴代議長・副議長一覧”. 衆議院 (2023年10月20日). 2024年5月18日閲覧。
- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 16頁。
- ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。
- ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
参考文献
[編集]関連項目
[編集]外部リンク
[編集]議会 | ||
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先代 中村啓次郎 |
衆議院議長 第30代:1932年 - 1934年 |
次代 浜田国松 |
公職 | ||
先代 松岡洋右 |
拓務大臣 第19代:1940年 - 1941年 |
次代 豊田貞次郎 |
先代 小原直 |
厚生大臣 第4代:1939年 - 1940年 |
次代 吉田茂 |