松原一彦
松原 一彦(まつばら かずひこ、1881年(明治14年)4月3日[1] – 1966年(昭和41年)2月18日[2][3][4])は、明治末から昭和期の教育者、政治家。衆議院議員(2期)、参議院議員(1期)。
経歴
[編集]大分県速見郡、のちの北由布村[5](由布院村[6]、由布院町、大分郡由布院町、湯布院町を経て現由布市)で、北由布村長を務めた松原達の長男として生まれ[5][7]、親類で漢学塾を営む松原孫作の養子となる[5]。1902年(明治35年)大分県師範学校を卒業した[2][3][4][5][6][7]。
玖珠郡戸畑小学校勤務、同郡野上尋常高等小学校長を務め[5][6]、1907年(明治40年)旅順尋常高等小学校訓導、同第二尋常高等小学校長を歴任[5]。南満州教育会の創立に参画し常任理事に就任[3]。1915年(大正4年)広島高等師範学校教育学科研修生となる[5]。その後、東京府荏原郡視学、同社会教育主事を歴任し、青年団の指導を担った[2][3][5][6]。1926年(大正15年)日本青年館主事に転じ、さらに帝国教育会評議員、大日本連合青年団主事、同本部長、大分県勤労訓練所長、選挙粛清中央連盟幹事、大政翼賛会参与などを務めた[2][3][4][5][6][7]。
1946年(昭和21年)4月、第22回衆議院議員総選挙に大分県選挙区から出馬して当選し、次の第23回総選挙(大分県第2区)で再選され、衆議院議員を連続2期務めた[2][4][5][6]。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙では落選[8]。1950年(昭和25年)6月、第2回参議院議員通常選挙に全国区から出馬して当選し[9]、参議院議員を1期務めた[3][4][5][6]。この間、国民協同党代議士会長、衆議院決算委員長、参議院懲罰委員長、第3次鳩山一郎内閣法務政務次官、自由民主党総務、日本退職公務員連盟顧問などを務めた[2][3][4][6]。その後、第4回通常選挙(全国区)に出馬したが落選した[10]。
1956年(昭和31年)から売春対策審議委員に4期在任し、晩年は全国老人クラブ連合会理事を務めた[6]。
1965年(昭和40年)春の叙勲で勲二等瑞宝章受章[11]。
1966年(昭和41年)2月18日死去、84歳。死没日をもって従四位に叙される[12]。
脚注
[編集]- ^ 衆議院『第九十回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1946年、31頁。
- ^ a b c d e f 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』603頁。
- ^ a b c d e f g 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』412頁。
- ^ a b c d e f 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』579頁。
- ^ a b c d e f g h i j k 『大分県歴史人物事典』11-12頁。
- ^ a b c d e f g h i 『大分百科事典』739頁。
- ^ a b c 『人事興信録 第15版 下』マ32頁。
- ^ 『国政選挙総覧 1947-2016』376頁。
- ^ 『国政選挙総覧 1947-2016』540頁。
- ^ 『国政選挙総覧 1947-2016』546頁。
- ^ 『官報』第11513号14頁 昭和40年4月30日号
- ^ 『官報』第11759号14-15頁 昭和41年2月24日号
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第15版 下』人事興信所、1948年。
- 大分放送大分百科事典刊行本部編『大分百科事典』大分放送、1980年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『大分県歴史人物事典』大分合同新聞社、1996年。
- 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。
- 『国政選挙総覧 1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。
議会 | ||
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先代 竹山祐太郎 |
衆議院決算委員長 | 次代 松浦東介 |
先代 石川清一 |
参議院懲罰委員長 | 次代 一松定吉 |