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泉山三六

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
泉山 三六
いずみやま さんろく
泉山三六
生年月日 1896年3月30日
出生地 山形県大和村(現庄内町
没年月日 (1981-07-07) 1981年7月7日(85歳没)
出身校 東京帝国大学政治学科卒業
前職 銀行員
所属政党日本自由党→)
民主自由党→)
自由党→)
自由民主党
称号 従三位
勲二等旭日重光章

内閣 第2次吉田内閣
在任期間 1948年10月19日 - 1948年12月14日

選挙区 全国区
当選回数 2回
在任期間 1950年6月4日 - 1962年7月7日

選挙区 山形2区
当選回数 1回
在任期間 1947年4月26日 - 1948年12月14日
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泉山 三六(いずみやま さんろく、1896年(明治29年)3月30日1981年(昭和56年)7月7日)は、日本政治家衆議院議員(1期)、参議院議員(2期)、大蔵大臣第54代)を歴任。ペンネームは泉山間窓。

来歴

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山形県東田川郡大和村(現庄内町)小出新田出身。豪農・太田直右衛門の三男として生まれる。後に長じてから青森県八戸の資産家泉山家・5代目泉山吉兵衛の養子となる。子供の頃は手に負えない乱暴者だったという。第一高等学校を経て、1921年東京帝国大学法学部政治学科を卒業。三井銀行に入行する[1]。ここで三井財閥の大物池田成彬の目に留まり、企画部長、帝国銀行秘書役、同行調査役と栄進した。

1947年に帝銀を退職し、同年の第23回衆議院議員総選挙において日本自由党公認で旧山形2区から立候補し、初当選。1948年10月、当選1回の無名の新人ながら第2次吉田内閣大蔵大臣に抜擢される(この人事については池田成彬が推薦したとする説、広川弘禅が推薦したとする説、池田を通じて知己のあった吉田が一本釣りしたとする説がある)が、12月13日衆議院予算委員会に泥酔状態で出席したことが問題となる[2]。さらに、酔った勢いで議員食堂前の廊下で山下春江議員に抱きついてキスを迫り、抵抗されると顎に噛みつくなどの不祥事(国会キス事件)が発覚。野党が一斉に反発し、審議を拒否したことから翌14日に引責辞任すると共に議員辞職した。この事件を重く見た衆議院では、12月22日に議員は酒気帯び登院を厳禁とする国会決議議場内粛正に関する決議」が全会一致で可決されている。

盃を傾けながら(1955年)

しかし、この一件で「大トラ大臣」として知名度が向上した事が功を奏してか、かえって一般人気は高まったと見え、1950年第2回参議院議員通常選挙では全国区から立候補し、得票数第7位で当選。以後、参議院議員を2期12年務めた。

1967年春の叙勲で勲二等旭日重光章受章(勲六等からの昇叙)[3][4]

1981年7月7日死去、85歳。死没日をもって従三位に叙される[5]

国会議員選挙歴

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衆議院議員選挙

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参議院議員選挙

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著書

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  • 1953年(昭和28年) - 『トラ大臣になるまで - 余が半生の想ひ出 - 』 東方書院(出版)

脚注

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  1. ^ 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、108頁。 
  2. ^ 世相風俗観察会『増補新版 現代世相風俗史年表 昭和20年(1945)-平成20年(2008)』河出書房新社、2003年11月7日、26頁。ISBN 9784309225043 
  3. ^ 泉山 三六」『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』https://kotobank.jp/word/%E6%B3%89%E5%B1%B1%20%E4%B8%89%E5%85%ADコトバンクより2022年12月14日閲覧 
  4. ^ 『官報』第12111号12頁 昭和42年5月1日号
  5. ^ 『官報』第16340号13-14頁 昭和56年7月15日号

参考資料

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公職
先代
吉田茂(事務取扱)
日本の旗 大蔵大臣
第54代:1948年
次代
大屋晋三(臨時代理)
先代
吉田茂(事務取扱)
日本の旗 経済安定本部総務長官
第6代:1948年
次代
周東英雄(臨時代理)
先代
吉田茂(事務取扱)
日本の旗 物価庁長官
第6代:1948年
次代
周東英雄(臨時代理)
議会
先代
苫米地義三
  日本の旗 参議院予算委員長  
1957年 - 1958年
次代
井野碩哉