星野芳樹
星野 芳樹(ほしの よしき、1909年(明治42年)3月30日[1][2][3] ‐ 1992年(平成4年)5月31日[1][2]) は、昭和期のジャーナリスト、政治家。参議院議員(1期)。
経歴
[編集]東京府東京市小石川区(現文京区小石川)で、牧師星野光多の三男として生まれた[4][5]。早稲田中学校(現早稲田中学校・高等学校)を経て、静岡高等学校文科(現静岡大学)に進んだ[4][5]。左翼運動に加わり、1931年(昭和6年)日本共産党に入党[1][2][3][4]。1933年(昭和8年)検挙されて入獄し静岡高校を中退、1940年(昭和15年)恩赦で出獄した[1][2][3][4]。同年、上海に渡り上海自然科学研究所員に就任[1][2][3][4][6]。1941年(昭和16年)容海語学校を設立[3][6]。さらに容海小学校、容海忠学校を設立し、在留日本人の指導的存在となった[1][2][3][4][6]。終戦後、上海自治会宣導科教育班長、同代表委員を務め[5]、1946年(昭和21年)に帰国した[3]。
帰国後、在外同胞帰還促進連盟を結成[5]して海外抑留者の引揚促進運動を進め[1][2][3]、在外同胞帰還促進全国協議会顧問などを務めた[6]。1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙に全国区から出馬して当選(補欠、任期3年)[6][7]。1950年(昭和25年)6月の第2回通常選挙に全国区から労働者農民党公認で立候補したが落選し[8]、参議院議員に1期在任した[3][6]。
1949年(昭和24年)から群馬県沼田市に移り[4]、1954年(昭和29年)静岡新聞社非常勤論説委員となる[1][4]。1959年(昭和34年)5月沼田市に10万余円寄付により同年12月23日紺綬褒章受章[9]。1970年(昭和45年)同社編集主幹に就任し、世界各国に出張して執筆を行う[4]。1974年(昭和49年)3月に静岡新聞社を退職し社外論説委員となる[4]。同年、妻と共にケニア・ナイロビに移住[4]。1975年(昭和50年)日本アフリカ文化交流協会を設立しスワヒリ語学院(星野学校)を創設して日本人学生を受け入れた[1][2][3][4]。1985年(昭和60年)春の叙勲で勲三等旭日中綬章受章[10]。1987年(昭和63年)病のため日本に帰国した[2]。
1992年(平成4年)5月31日死去、83歳。死没日をもって正五位に叙される[11]。
著作
[編集]- 『上海路地裏の人々』世界社、1947年。
- 『共産主義卒業之記:思想の遍歴とわが半生』土佐書房、1948年。
- 『アジア・アフリカ紀行』講談社、1959年。
- 『動乱のアフリカを行く』ダイヤモンド社、1965年。
- 『いろいろな民族さまざまな生きかた』静岡新聞社、1971年。
- 『アフリカの指導者:アフリカわが心の友だち』〈現代アフリカの証言2〉ブロンズ社、1978年。
- 『星野芳樹自伝:静岡からナイロビへ』リブロポート、1986年。
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i 『日本人名大辞典』1684頁。
- ^ a b c d e f g h i j 『新訂 政治家人名事典』547頁。
- ^ a b c d e f g h i j 『現代人名情報事典』916頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l 『群馬県人名大事典』466頁。
- ^ a b c d e 『人事興信録 第15版 下』ホ4頁。
- ^ a b c d e f 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』403頁。
- ^ 『国政選挙総覧 1947-2016』538頁。
- ^ 『国政選挙総覧 1947-2016』542頁。
- ^ 『官報』第9903号672頁 昭和34年12月24日号
- ^ 『官報』号外第51号1頁 昭和60年4月30日号
- ^ 『官報』第943号10-11頁 平成4年7月2日号
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第15版 下』人事興信所、1948年。
- 『群馬県人名大事典』上毛新聞社、1982年。
- 『現代人名情報事典』平凡社、1987年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。
- 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。
- 『国政選挙総覧 1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。