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慶松勝左衛門

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慶松勝左衛門

慶松 勝左衛門(けいまつ しょうざえもん、前名・勝太郎[1]1876年明治9年)9月21日 - 1954年昭和29年)1月28日[2])は、日本の薬学者政治家貴族院議員[2]参議院議員(1期)。薬学博士

経歴

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京都府出身で、都二条烏丸の薬種街の慶松衛生堂にて生まれる。先代勝左衛門の長男[1]1901年東京帝国大学医科大学薬学科卒業[1][3][4]。同年同大学の助手となる。

その後東京衛生試験所技師、関東都督府中央試験所長、南満洲鉄道中央試験所長を経て、1915年10月1日第一製薬の前身であるアーセミン商会を創業。梅毒の治療薬である駆梅剤アーセミン®を発売した。その後1922年東京帝国大学薬学科教授に就任した。この他京都帝国大学講師も務めた。1935年時点の栄典は正四位勲三等[3]。戦時中には医薬品統制社長を務め、戦後の1946年7月29日に貴族院勅選議員に任じられ[5]交友倶楽部に所属し1947年5月2日の貴族院廃止まで在任した[6]。同年に行われた第1回参議院議員通常選挙全国区から日本自由党公認で立候補して当選したが、同年6月24日に同仁会理事として公職追放となり[注釈 1][8]、同年7月15日に失職した[8][9]。この他日本薬剤師会会長も務めた。

1954年1月28日死去、77歳。死没日をもって勲一等瑞宝章追贈(勲二等からの昇叙)[10]。墓所は多磨霊園

家族・親族

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慶松家

著訳書

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単著
  • 『衣食住 : 家庭衛生』育成会、1905年。
編著
  • 『生薬便覧』南山堂、1904年。
  • 『製造化学図譜』慶松勝左衛門、1926年。
  • 柏原吉五郎共編『化学実験室紀要』南江堂、1903年。
  • 西田博太郎共編『実験化学工業』第1-3巻、化学工業発行所、1917年。
訳書
  • ゲ・フオルトマン著、下山順一郎閲『重量分析実験指導』慶松勝左衛門、1902年。

脚注

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注釈
  1. ^ 「同仁会は日本の医学・医療を中国およびアジア諸国に普及することを目的に、一九〇二年六月に設立された医療事業団体である。一九四六年二月、連合軍総司令部指令に基づく日本政府の「政党・協会・団体結成禁止令」による解散までの四十余年間、中国で病院経営・難民救済・文化交流など、幅広い活動を行っていた」[7]
出典
  1. ^ a b c d e f 『人事興信録 第7版』け1頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年11月10日閲覧。
  2. ^ a b 慶松 勝左衛門とはコトバンク。2020年11月10日閲覧。
  3. ^ a b 『薬業年鑑 昭和10年』217頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年11月10日閲覧。
  4. ^ 『東京帝国大学一覧 明治34-35年』薬学士540頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年11月10日閲覧。
  5. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、58頁。
  6. ^ 『議会制度百年史 貴族院・参議院議員名鑑』120頁。
  7. ^ ディン・レイ『近代日本の対中医療・文化活動 -同仁会研究(一)』。
  8. ^ a b 『官報』第6156号、昭和22年7月23日。
  9. ^ 『朝日新聞』1947年7月8日一面。
  10. ^ 『官報』第8125号88頁 昭和29年2月5日号

参考文献

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  • 『東京帝国大学一覧 明治34-35年』東京帝国大学、1886 - 1912年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第7版』人事興信所、1925年。
  • 薬石日報社編纂『薬業年鑑 昭和10年』薬石日報社、1935年。
  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 『慶松勝左衛門博』廣川書店、編者 根本曽代子、1974年。
  • 『議会制度百年史 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『新訂 政治家人名事典 明治〜昭和』日外アソシエーツ、2003年。ISBN 9784816918056