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矢野酉雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

矢野 酉雄(やの とりお、1897年明治30年)10月6日[1][2][3] - 1963年昭和38年)11月20日[1][2][3][4])は、大正から昭和期の教育者、雑誌編集者、政治家参議院議員(1期)。号・孤山[1][2][3]

経歴

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福岡県[1][2][4]三池郡上内村大字上内(銀水村を経て現大牟田市大字上内[5])で矢野巽の息子として生まれる[6]。福岡県立八女中学校[注 1]を経て[5]、1917年(大正6年)福岡師範学校を卒業[1][2][3][4]。その後、中央大学法科、日本大学高等師範科で学び[3][5]、同年、福岡県三池郡内各尋常小学校訓導を務めた[1][2][4]。その後、文部省教員検定試験に合格し中等教員免状を取得[6]。以後、沖縄県女子師範学校教諭兼訓導兼同県立高等女学校教諭、鹿児島県第二師範学校教諭兼訓導、福岡県立嘉穂中学校[注 2]教諭、同県実業補習学校指導員などを務めた[1][2][4]

1933年(昭和8年)講談社に入社し編集、評論活動に従事[1][2][3][5]。1936年(昭和11年)生長の家に加わり教育部長兼編集部長、本部理事を務めた[1][2][3][5]。1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙全国区から無所属で出馬して当選(補欠、任期3年)[1][2][3][7]緑風会に所属し参議院在外同胞引揚問題に関する特別委員長、第3次吉田内閣厚生政務次官などを務めた[1][2][4]。1947年に生長の家から離れたため、1950年(昭和25年)6月の第2回通常選挙では落選し[1][5][8]、参議院議員に1期在任した[4]。また、1953年(昭和28年)4月の第26回衆議院議員総選挙東京都第3区から無所属で立候補したが落選した[9]

その後、教育公論社長、矢野経済研究所会長などを務めた[1][2][3][5]

1963年(昭和38年)11月20日死去、66歳。死没日をもって勲四等旭日小綬章追贈、正七位から従五位に叙される[10]。墓所は世田谷区松陰神社

伝記

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  • 矢野酉雄記念出版刊行会編『孤山矢野酉雄』矢野酉雄記念出版刊行会、1964年。

著作

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  • 『胎教と幼児教育』宝文館、1924年。
  • 『日本を建設するもの』教育公論社、1949年。

親族

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脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『日本人名大事典 現代』796頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』640頁。
  3. ^ a b c d e f g h i 『現代人名情報事典』1060頁。
  4. ^ a b c d e f g 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』430頁。
  5. ^ a b c d e f g h 『ふるさと人物記』292頁。
  6. ^ a b 『人事興信録 第15版 下』ヤ5頁。
  7. ^ 『国政選挙総覧 1947-2016』538頁。
  8. ^ 『国政選挙総覧 1947-2016』541頁。
  9. ^ 『国政選挙総覧 1947-2016』137頁。
  10. ^ 『官報』第11084号14頁 昭和38年11月25日号

参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録 第15版 下』人事興信所、1948年。
  • ふるさと人物記刊行会編『ふるさと人物記』夕刊フクニチ新聞社、1956年。
  • 『日本人名大事典 現代』平凡社、1979年。
  • 『現代人名情報事典』平凡社、1987年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。
  • 『国政選挙総覧 1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。
議会
先代
新設
日本の旗 参議院在外同胞引揚問題に関する特別委員長 次代
中平常太郎