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上林繁次郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
上林 繁次郎
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京府[1]
生年月日 (1917-01-13) 1917年1月13日
没年月日 (2002-02-08) 2002年2月8日(85歳没)
身長
体重
171 cm
63 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1947年
初出場 1947年
最終出場 1953年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
上林繁次郎
かんばやし しげじろう
所属政党 公明党

選挙区 全国区
当選回数 2回
在任期間 1968年7月8日 - 1980年7月8日
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上林 繁次郎(かんばやし しげじろう、1917年大正6年〉1月13日 - 2002年平成14年〉2月8日[1])は、日本プロ野球選手政治家

来歴・人物

[編集]

日大三中から明治大学へ進学。卒業後に満洲電電へ進み、1947年中部日本ドラゴンズへ入団[1]

1949年東急フライヤーズへ移籍[1]。この年は93試合に出場し、翌年も73試合に出場した。東急時代にバッテリーを組んでいた白木義一郎池田大作の妻・香峯子の従兄弟)に折伏されて創価学会に入信。

1952年毎日オリオンズへ移籍し、1953年に現役引退[1]1954年から2年間、高橋ユニオンズでコーチを務めた。

1955年のシーズン中に創価学会を支持母体として船橋市市議会議員選挙に立候補して当選[2]。同じく創価学会信者であったエースの野村武史や二軍監督の小田野柏と3人で、試合そっちのけで選挙運動をしていたことが問題となり、ユニオンズを退団。

以後、創価学会文化部から公明政治連盟を経て政界へと進出。船橋市市議会議員、千葉県県議会議員を務め[1]1967年第31回衆議院議員総選挙千葉1区から公明党で出馬するも次点で落選。1968年第8回参議院議員通常選挙に再び公明党から出馬して初当選した。1974年第10回参議院議員通常選挙で再選し、1980年に政界引退するまで2期12年参院議員を務めた[1]

1987年、春の叙勲で勲二等瑞宝章を受章。

2002年2月8日肺炎のため死去。85歳没。

詳細情報

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年度別打撃成績

[編集]
















































O
P
S
1947 中部日本
中日
50 107 99 7 18 0 1 0 20 4 0 3 1 -- 7 -- 0 12 -- .182 .236 .202 .438
1948 39 108 101 5 18 3 0 1 24 3 1 3 0 -- 7 -- 0 10 -- .178 .231 .238 .469
1949 東急 93 262 245 13 45 5 2 3 63 18 1 2 3 -- 14 -- 0 24 -- .184 .228 .257 .485
1950 73 221 203 20 48 5 1 3 64 21 7 1 1 -- 17 -- 0 27 8 .236 .295 .315 .610
1951 48 139 127 13 21 4 1 1 30 7 0 0 4 -- 7 -- 0 22 2 .165 .209 .236 .445
1952 毎日 12 25 25 3 9 0 0 0 9 3 0 0 0 -- 0 -- 0 0 0 .360 .360 .360 .720
1953 7 7 7 0 3 0 0 0 3 1 0 0 0 -- 0 -- 0 0 0 .429 .429 .429 .858
通算:7年 322 869 807 61 162 17 5 8 213 57 9 9 9 -- 52 -- 0 95 10 .201 .249 .264 .513
  • 中部日本(中部日本ドラゴンズ)は、1948年に中日(中日ドラゴンズ)に球団名を変更

背番号

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  • 22 (1947年 - 1948年)
  • 21 (1949年 - 1951年)
  • 26 (1952年 - 1953年)
  • 50 (1954年)
  • 43 (1955年)

脚注

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  1. ^ a b c d e f g プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、178ページ
  2. ^ 長谷川晶一『最弱球団 高橋ユニオンズ青春記』(白夜書房、2011年)p92。

関連項目

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外部リンク

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議会
先代
宮崎正義
日本の旗 参議院運輸委員長 次代
内田善利