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手島栄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
手島栄

手島 栄(てしま さかえ、明治29年(1896年12月10日 - 昭和38年(1963年4月18日)は、日本逓信官僚政治家位階正三位郵政大臣(第20代)、参議院議員(2期)。

経歴

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鳥取県西伯郡富益村(現米子市富益町)の農家に生まれた。手島菊松の二男。

旧制米子中学校(現米子東高等学校)、第四高等学校を経て、大正11年(1922年)3月東京帝国大学法学部卒業。逓信省に入る。

昭和12年(1937年)経理局長、昭和15年(1940年)管理局長、昭和16年(1941年)航空局長官、同年10月逓信次官に任ぜられ航空局長官事務取扱を命ぜられる。昭和18年(1943年)10月退官。

戦後は実業界に入り、昭和20年(1945年)国際電気通信社長、日本郵便逓送顧問などを歴任した。昭和22年(1947年公職追放となる[1]

追放解除後の昭和31年(1956年)7月第4回参議院議員通常選挙全国区)に当選。昭和37年(1962年)7月第2次池田第2次改造内閣郵政大臣で入閣。昭和38年(1963年)1月病気で大臣を辞任し、同年4月、現職議員のまま66歳で死去[2]勲一等瑞宝章追贈、正三位に叙される[3]

人物

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宗教浄土宗。趣味は囲碁将棋

家族

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妻・しげのの祖父・稲賀龍二

系譜

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手島家
手島氏について、『伯州浜の目境村之聞書』に「尼子の重臣亀井能登守の家臣に手島四郎三郎あり。四郎三郎戦死後、その一子は雲州本庄に逃れ、その後境村に転住。その末裔の他一族も境村に多い」とある[4]
手島家は元来、境村(現境港市、旧境町)出身で、初代手島善四郎の時に富益村(現在の米子市富益町)に移住、農業を営みながら庄屋をつとめた旧家である。手島栄の生家は6代目善四郎時代の分家である[5]
                 ┏手島文雄
                 ┃
                 ┣悦子
                 ┃
手島善四郎…手島菊松━━手島栄━━╋手島晃
                 ┃
                 ┣邦子
                 ┃
                 ┗手島和夫

脚注

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  1. ^ 『朝日年鑑』1948年版、175頁、「公職追放者氏名」。
  2. ^ 手島栄」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』https://kotobank.jp/word/%E6%89%8B%E5%B3%B6%E6%A0%84コトバンクより2023年1月15日閲覧 
  3. ^ 『手島栄』341頁
  4. ^ 『境港市史 上巻』昭和61年 370頁
  5. ^ 『手島栄』160-161頁

参考文献

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  • 『手島栄』手島栄追想録刊行会 1964年
  • 『新日本人物大観』(鳥取県版) 人事調査通信社 ツ・テ361頁
  • 『鳥取県大百科事典』新日本海新聞社 1984年 613頁
  • 『勝田ヶ丘の人物誌』(編集・勝田ヶ丘の人物誌編集委員会、発行・鳥取県立米子東高等学校創立百周年記念事業実行委員会 2000年 285-288頁)

外部リンク

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議会
先代
三木與吉郎
日本の旗 参議院逓信委員長
1959年
次代
柴田栄
公職
先代
迫水久常
日本の旗 郵政大臣
第20代:1962年 - 1963年
次代
小沢久太郎