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山崎巌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山崎 巌
やまざき いわお
警視総監在任中の山崎巌
生年月日 (1894-09-16) 1894年9月16日
出生地 日本の旗 日本福岡県大川市
没年月日 (1968-06-26) 1968年6月26日(73歳没)
出身校 東京帝国大学法学部法律学科卒業
所属政党 (自由党→)
(自由民主党)
称号 法学士東京帝国大学・1918年)
親族 有吉忠一(義父)
山崎達之輔(兄)
山崎平八郎(甥)
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山崎 巌(やまざき いわお、1894年明治27年〉9月16日 - 1968年昭和43年〉6月26日)は、日本の内務官僚政治家。内務三役(警保局長、警視総監内務次官)を経て政界入りし、内務大臣自治大臣国家公安委員会委員長を歴任した。農林大臣逓信大臣山崎達之輔は実兄。

来歴・人物

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福岡県大川市に生まれる。福岡県立中学伝習館第五高等学校を経て、1918年(大正7年)東京帝国大学法学部法律学科(独法)卒業。

内務官僚

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同年、内務省入省。厚生省社会局長、官選静岡県知事、内務省土木局長、警保局長などを経て、1940年(昭和15年)警視総監に就任する。総監時代には企画院事件などを捜査する。東條内閣では内務次官を務める。彼自身の力量もあったが、兄・達之輔を通じた帝国議会対策を東條英機首相から期待されての起用だった。

政治家

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終戦後、1945年(昭和20年)東久邇宮内閣で内務大臣。在任中、マッカーサー昭和天皇の訪問を受けた際の写真の掲載禁止を指示したがGHQから命令撤回を指令される。また政治犯釈放に反対し、「天皇制に反対する者は共産主義者であるから今後も治安維持法によって逮捕する」と国体の擁護と同法の維持を主張。「自由の指令」を発したGHQと対立する形になり罷免、公職追放となる。これを契機として東久邇宮内閣も「改革指令の遂行は共産革命を誘発し不可能」として総辞職に至った。追放中の1948年(昭和23年)兵器処理委員会に関する問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された[1]

1952年(昭和27年)追放が解除されると、第25回総選挙に戦前政友会の代議士だった達之輔の地盤を引き継いで自由党公認で立候補し当選した。保守合同後は自由民主党緒方派→石井派に所属。1960年(昭和35年)に池田勇人自由民主党総裁選挙で当選すると、池田は山崎を幹事長に起用しようとするが、総裁派閥宏池会大橋武夫が派内の益谷秀次を就けることを強硬に主張したことから、第1次池田内閣の自治大臣兼国家公安委員会委員長となる。しかし同年10月におきた浅沼稲次郎暗殺事件で、国家公安委員長として責任を取らされ辞任した。

1968年(昭和43年)6月26日、73歳で死去。

家族・親族

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栄典

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脚注

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  1. ^ 第2回国会 衆議院 不当財産取引調査特別委員会 第48号 昭和23年8月23日
  2. ^ 『閨閥』、342-343頁。
  3. ^ a b c d 『閨閥』、341-344頁。
  4. ^ 東京天文台初代台長寺尾寿の家系図を入手 - 国立天文台・天文情報センター・アーカイブ室新聞 第65号(PDFファイル
  5. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。

参考文献

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  • 佐藤朝泰 著 『閨閥 日本のニュー・エスタブリッシュメント立風書房、1981年(昭和56年)10月30日 第1刷発行
公職
先代
石原幹市郎
日本の旗 自治大臣
第2代:1960年
次代
周東英雄
先代
石原幹市郎
日本の旗 国家公安委員会委員長
第11代:1960年
次代
周東英雄
先代
安倍源基
日本の旗 内務大臣
第69代:1945年
次代
堀切善次郎
官職
先代
湯沢三千男
唐沢俊樹
日本の旗 内務次官
第47代:1942年 - 1943年
第49代:1944年 - 1945年
次代
唐沢俊樹
灘尾弘吉
先代
岡田文秀
十六条旭日旗の旗南西方面海軍民政府司政長官
第2代:1944年
次代
福井淳
先代
安倍源基
日本の旗 警視総監
第48代:1940年 - 1941年
次代
留岡幸男
先代
本間精
日本の旗 内務省警保局長
第69代:1940年
次代
藤原孝夫
先代
飯沼一省
静岡県の旗 静岡県知事
第29代:1938年 - 1939年
次代
小浜八弥