飯沼一省
いいぬま かずみ 飯沼 一省 | |
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1940年。 | |
生誕 |
1892年2月15日 福島県若松市 |
死没 | 1982年11月14日(90歳没) |
出身校 | 東京帝国大学法学部 |
職業 |
内務次官 東京都長官 都市計画協会会長 宅地制度審議会会長 |
配偶者 | 南櫂子(南弘長女) |
子供 | 2 |
飯沼 一省(いいぬま かずみ、1892年(明治25年)2月15日 - 1982年(昭和57年)11月14日[1])は、日本の内務官僚、貴族院議員。戦前から戦後にかけ、日本の都市計画行政を牽引した人物の一人である。妻は南弘の娘・櫂子。
生涯
[編集]福島県会津若松市生まれ。父は白虎隊士飯沼貞吉の弟で会津松平家家令・飯沼関弥。東京小石川の旧黒田小学校(現在の文京五中の敷地)、府立四中、一高を経て、東京帝国大学法科大学を卒業後[2]、内務省に入省[2][3]。土木局属[4]。神社局総務課長[2]、都市計画課長[2]、埼玉県知事[2]、紀元二千六百年式典の事務局長[2]を務めた後、静岡県知事[2]、広島県知事[2]、神奈川県知事[2]、内務省神社局長[2]、神祇院副総裁[2]を歴任。
第二次世界大戦後の1946年3月12日に貴族院議員に勅選され[2][5]、交友倶楽部に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任[1]。この間、内務次官を務め[2]1946年11月18日、19日にかけて行われた昭和天皇の茨城県行幸(昭和天皇の戦後巡幸)に随行する機会があった[6]。1947年(昭和22年)には公選制度が始まる直前の東京都長官を務めた[2][7]。1948年に兵器処理委員会に関する問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された[8]。
公職を退いた後は、都市計画協会の理事長や会長を務める傍ら、国土総合開発審議会や宅地制度審議会(会長)、あるいは都市計画審議会などのメンバーとして、都市計画に関連する国の行政に協力した。とくに、1949年制定の広島平和記念都市建設法については法案の提出に尽力し、1968年に全面改正された都市計画法に関連しては、改正の方針を検討する宅地審議会の会長、ならびに改正後に新設された都市計画中央審議会の会長として、制度の定着に努力した。また、1960年からは、国際住宅都市計画連合(IFHP)の名誉副会長を務めた。会津会会長[9]。
1982年11月14日死去。享年90。
家族
[編集]栄典
[編集]- 位階
- 勲章等
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[12]
著書
[編集]- 『都市計画の理論と法制』
- 『地方計画論』
- 『都市計画夜話』
- 『受益者負担論』
出典
[編集]- ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』94頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 『昭和史事典』毎日新聞社〈別冊1億人の昭和史〉、1980年5月、21頁。
- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 77頁。
- ^ 『日本官僚制総合事典』東京大学出版会、2001年11月発行、217頁
- ^ 『官報』第5748号、昭和21年3月14日。
- ^ 原武史『昭和天皇御召列車全記録』新潮社、2016年9月30日、92頁。ISBN 978-4-10-320523-4。
- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 78頁。
- ^ 第2回国会 衆議院 不当財産取引調査特別委員会 第45号 昭和23年7月31日
- ^ “福島民報 会津会百年(2012年3月1日-3月5日)” (PDF). みやぎ会津会. 2013年10月20日閲覧。
- ^ 南弘『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
- ^ 『官報』第3208号「叙任及辞令」1937年9月10日。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
参考文献
[編集]- 秦郁彦著『戦前期日本官僚制の制度、組織、人事』 東京大学出版会
- 帝国秘密探偵社『大衆人事録 東京篇』(第13版)1939年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
外部リンク
[編集]- 特ニ親任官ノ待遇ヲ賜フ 神祇院副総裁 飯沼一省(国立公文書館 アジア歴史資料センター)
- 特ニ親任官ノ待遇ヲ賜フ 内務次官 飯沼一省(国立公文書館 アジア歴史資料センター)
公職 | ||
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先代 大村清一 |
内務次官 第54代:1946年 - 1947年 |
次代 斎藤昇 |