コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

島田剛太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
島田剛太郎

島田 剛太郎(嶋田[1]、しまだ ごうたろう / こうたろう[1]1867年10月12日(慶応3年9月15日[1])- 1945年昭和20年)2月28日[1][2])は、日本の農商務内務官僚。官選県知事

経歴

[編集]

越前国[2]勝山藩士・島田静虎[注釈 1]、つるの長男(4男3女)として生まれる[1][3]京都旧制中学校の教育を受けて上京し[1]大学予備門を経て[1]1890年帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業。同年7月15日、農商務省に入省し試補となり参事官室に配属された[3][4]

1902年、農商務省参事官に就任。以後、林務官、鉱山監督兼農商務省参事官、臨時葉煙草取扱所建築事務官、林野整理局書記官、林務官兼山林局書記官兼農商務書記官などを歴任し、1907年1月、京都府事務官・第一部長兼第三部長となる[5]

1907年12月、埼玉県知事に就任。産業、教育の振興に尽力[6]1913年6月、岐阜県知事に転任。加納高等女学校の開校、米の生産検査の施行などを推進[7]1917年1月、長崎県知事に転任。労働争議、スペイン風邪の対応などに尽力。1919年4月に知事を辞職し退官した[3][4]

退官後、1919年10月に矢作川において電源開発を手掛ける矢作水力監査役に就任[8]1936年10月まで在任した[9]。なお、1937年版の興信録に見える役職は矢作水力監査役のみである[10]

栄典

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 『埼玉人物事典』404頁では静処。

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g 「嶋田 剛太郎」『埼玉人物事典』404頁。
  2. ^ a b 『日本人名大辞典』930頁。
  3. ^ a b c 『新編日本の歴代知事』1018頁。
  4. ^ a b 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』154頁。
  5. ^ 『官報』第7061号、明治40年1月15日。
  6. ^ 『新編日本の歴代知事』312頁。
  7. ^ 『新編日本の歴代知事』542頁。
  8. ^ 『矢作水力株式会社十年史』147頁
  9. ^ 『矢作製鉄 風雪の60年小史』219頁
  10. ^ 『人事興信録』第11版上巻シ82頁。NDLJP:1072916/1118
  11. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  12. ^ 『官報』第1688号「叙任及辞令」1918年3月22日。

参考文献

[編集]
  • 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
  • 埼玉県教育委員会編『埼玉人物事典』埼玉県、1998年。
  • 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
  • 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。
  • 人事興信所(編)『人事興信録』 第11版上巻、人事興信所、1937年。NDLJP:1072916 
  • 桐沢伊久太郎(編)『矢作水力株式会社十年史』矢作水力、1929年。NDLJP:1031632 
  • 石根立雄『矢作製鉄 風雪の60年小史』ヤハギ、2000年。