鹿子木小五郎
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鹿子木 小五郎(かのこぎ こごろう、1867年3月30日(慶応3年2月25日)- 1922年(大正11年)4月1日[1])は、日本の官僚、裁判官、政治家。県知事、貴族院議員。
経歴
[編集]本籍・東京府。肥後国熊本城下中職人町(現:熊本市中央区新町)で、熊本藩士・鹿子木才七の長男として生まれる。1880年秋から慶應義塾などで学び、1883年10月、獨逸学協会学校に入学。1888年夏、同校を卒業し、同年10月、高等試験に合格。同年12月、判事試補に任じられ長崎治安裁判所詰となる。
以後、熊本始審裁判所詰、同判事、熊本地方裁判所判事、横浜地方裁判所判事を歴任。1894年2月、法制局に転じ参事官に就任。1901年11月、台湾総督府に転じ民政部通信局長兼参事官となる。1909年7月、農商務省に転じ工務局長に就任した。
1910年6月、香川県知事に登用された。以後、和歌山県・岐阜県の各知事を歴任。1921年5月、岐阜県知事を退任し、同年5月24日、貴族院勅選議員に任じられ[2]、研究会に属し死去するまで在任した[1][2]。
その他、日本大博覧会理事官、高等教育会議議員、東京高等工業学校商議員、臨時教育行政調査会委員などを務めた。
家族
[編集]- 父・鹿子木才七 - 熊本藩士[3]
- 妻・ハナ - 水野忠幹 (紀伊新宮藩主)の孫。
- 二女・芳 - 富永惣一の妻。
栄典
[編集]- 位階
- 1896年(明治29年)5月30日 - 正七位[4]
- 1900年(明治33年)5月30日 - 正六位[5]
- 1902年(明治35年)7月16日 - 従五位[6]
- 1906年(明治39年)2月20日 - 正五位[7]
- 1911年(明治44年)3月20日 - 従四位[8]
- 1916年(大正5年)4月10日 - 正四位[9]
- 1921年(大正10年)6月25日 - 正三位[10]
- 勲章
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』110頁。
- ^ a b 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、30頁。
- ^ 鹿子木小五郎『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
- ^ 『官報』第3875号「叙任及辞令」1896年6月1日。
- ^ 『官報』第5071号「叙任及辞令」1900年5月31日。
- ^ 『官報』第5710号「叙任及辞令」1902年7月17日。
- ^ 『官報』第6791号「叙任及辞令」1906年2月21日。
- ^ 『官報』第8321号「叙任及辞令」1911年3月21日。
- ^ 『官報』第1105号「叙任及辞令」1916年4月11日。
- ^ 『官報』第2671号「叙任及辞令」1921年6月27日。
- ^ 『官報』第2640号「叙任及辞令」1921年5月21日。
参考文献
[編集]- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』1990年。
- 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
- 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。
- 内閣「判事鹿子木小五郎法制局参事官高等官七等ニ任叙ノ件」明治27年。国立公文書館 請求番号:本館-2A-018-00・任B00032100 件名番号: 014