蔵原敏捷
蔵原 敏捷 くらはら としかつ | |
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蔵原敏捷 | |
生年月日 | 1888年8月15日 |
出生地 |
日本 熊本県下益城郡小川町 (現・宇城市) |
没年月日 | 1945年8月7日(56歳没) |
死没地 | 日本 熊本県熊本市 |
出身校 | 東京帝国大学法科大学卒業 |
所属政党 |
国民同盟 →大政翼賛会 |
称号 | 法学士 |
選挙区 | 熊本県第2区(戦前・中選挙区) |
当選回数 | 3回 |
在任期間 |
1936年2月20日 - 1945年8月7日 ※在職中死去 |
官選第25代 和歌山県知事 | |
在任期間 | 1930年8月26日 - 1932年1月29日※1931年12月18日より休職 |
蔵原 敏捷(くらはら としかつ、1888年8月15日 - 1945年8月7日)は、日本の官僚、政治家。元和歌山県知事。衆議院議員(3期)。官僚としては内務省の警察関連部門で長く勤めた。
来歴
[編集]熊本県下益城郡小川町(現・宇城市)出身[1]。小川尋常小学校、熊本県立八代中学校(1906年3月卒業)、第五高等学校(1909年7月卒業)を経て、1913年7月に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業した[1][2]。
大学卒業後の1913年10月に高等文官試験に合格した[1]。以後は内務省官僚となる[3]。1914年8月に大阪府警察部警部、1916年12月から同警視を務めた後、1922年6月に東京府理事官に異動し、その直後から欧米に約1年3か月出張した[1]。1923年10月に帰国すると千葉県警察部長、次いで1924年6月から秋田県警察部長をそれぞれ務める[1]。1925年10月に神奈川県書記官兼務で神奈川県警察部長に就任したが、1927年5月に休職ののち、8月にいったん依願免本官する[1]。
1929年7月に大阪府書記兼務で大阪府警察部長に復職し、1930年8月26日に和歌山県知事に任命された[1][4]。当時の蔵原は立憲民政党系だったとされる[5]。しかし、1931年12月18日に再び休職し、1932年1月29日、依願免本官となり退官した[1]。
1936年、第19回衆議院議員総選挙で国民同盟所属で当時の熊本県第2区(当時の中選挙区)から立候補し、第4位の得票で初当選する[6]。当時の蔵原は、同じ熊本県出身で、内務官僚時代に内務大臣を務めていた安達謙蔵のグループに所属していた[6]。
1937年、第20回衆議院議員総選挙で再選される[1]。1942年、第21回衆議院議員総選挙で再々選となる[1]。このとき蔵原は翼賛政治体制協議会の推薦を受けた(いわゆる「翼賛候補」)。
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j 故正五位蔵原敏捷位階追陞の件 - 1945年8月25日(リンク先は国立公文書館デジタルアーカイブ、6 - 7ページ目を参照)
- ^ 小川町史編纂委員会編纂『小川町史』小川町、1979年、1052頁
- ^ 高田久徳「帝国議会の官僚出身議員に関する予備的考察」『大正大学大学院研究論集』第37号、大正大学、2013年3月、139-146頁。 該当記述はp.145
- ^ 『官報』第1099号 - 1930年8月27日、p.732
- ^ 花野孝史「近代期の地域 開発 におけ る地方政治と民間資本の動向―和歌山築港を事例として―」(PDF)『人文地理』第51巻第3号、人文地理学会、1999年、89-103頁。 該当記述はp.97
- ^ a b 松枝大貴「昭和戦前期における第三党に関する一考察」『慶應義塾大学大学院法学研究科論文集』第57号、慶應義塾大学法学研究会、2017年、235-281頁。
- ^ 衆議院・参議院『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』(大蔵省印刷局、1990年)に「昭和20年8月7日死去」。『九州人国記』(熊本日日新聞社、1966年)の454頁には「戦争末期、病気の実母を見舞うため帰郷したさい、運悪く熊本市の旅館で空襲にあつて爆死した」との記述がある。
- ^ 平山謙二郎「『女性記者第一号平山訓』のこと」『熊本言論史会報 木鐸』第1号、熊本日日新聞社内新聞博物館、2000年3月、30-33頁。