児玉九一
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児玉九一 こだま きゅういち こだま くいち | |
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生年月日 | 1893年8月3日 |
出生地 | 日本 山口県 |
没年月日 | 1960年5月23日 |
出身校 |
東京帝国大学法学部政治学科卒業 (現東京大学法学部) |
前職 | 大臣官房会計課長 |
現職 |
中国地方行政事務局長 新宿御苑保存協会副会長 |
称号 | 帝都復興記念章 |
親族 |
父・児玉源太郎(内務大臣) 義父・大森鍾一(貴族院議員) 兄・兒玉秀雄(内務大臣) 義兄・中川望(貴族院議員) 義兄・池田宏(神奈川県知事) 義弟・重成格(鹿児島県知事) 義兄弟・穂積重遠(貴族院議員) 義兄弟・木戸幸一(内大臣) 義兄弟・大森佳一(貴族院議員) |
官選 第38代 広島県知事 | |
在任期間 | 1945年10月11日 - 1945年10月27日 |
官選 第30代 愛知県知事 | |
在任期間 | 1940年4月9日 - 1941年3月26日 |
官選 第31代 福岡県知事 | |
在任期間 | 1939年4月17日 - 1940年4月9日 |
官選 第33代 島根県知事 | |
在任期間 | 1936年9月2日 - 1937年2月10日 |
児玉 九一(こだま きゅういち / くいち、1893年8月3日[1] - 1960年5月23日[2])は、日本の内務官僚。県知事、厚生次官、中国地方総監。
経歴
[編集]1912年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。第一高等学校を経て、1919年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。1918年10月、高等試験行政科試験に合格。1919年、内務省に入り地方局属となる。
以後、静岡県志太郡長、静岡県警視、内務事務官、復興局事務官、内閣総理大臣秘書官、鉄道省事務官、内務書記官、神社局総務課長、兼造神宮使庁主事、大臣官房会計課長などを歴任。
1936年9月、島根県知事となり、以後、内務省神社局長兼造神宮副使、福岡県知事、愛知県知事、厚生次官、東京都次長などを歴任。
1945年8月、中国地方総監・大塚惟精が原爆投下により被爆死したため、その後任に就任。1945年10月11日から同月27日までの16日間、広島県知事を兼任した。同年10月31日、地方総監府の廃止により失職。その後、中国地方行政事務局長[3] や新宿御苑保存協会副会長などを務めた。
内務省神社局長時代は明治神宮外苑競技場の改築案(未遂)に、戦後の明治神宮外苑管理部長時代は国立競技場建設に、それぞれ周囲の景観を守るよう訴えた[4]。
1960年5月23日死去。享年66。
栄典
[編集]親族
[編集]著作
[編集]- 『神社行政』自治行政叢書 第1巻、常盤書房、1934年。
脚注
[編集]- ^ 『人事興信録 第20版 上』(人事興信所、1959年)こ68頁
- ^ 1960年5月24日『朝日新聞』(東京本社発行)夕刊、7面の訃報より
- ^ “広島原爆戦災誌”. 広島平和記念資料館 (1971年10月1日). 2018年1月14日閲覧。
- ^ 後藤健生:編著『国立競技場の100年:明治神宮外苑から見る日本の近代スポーツ』ミネルヴァ書房、2013年、211頁・238頁
- ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。