河島醇
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河島 醇(かわしま あつし / じゅん、弘化4年3月6日(1847年4月20日) - 明治44年(1911年)4月28日)は、幕末から明治時代に活躍した武士(薩摩藩士)、官僚、政治家。衆議院議員、貴族院議員。幼名・新之丞。
経歴
[編集]薩摩藩士・河島新五郎長寛の長男として鹿児島長田町に生まれる。藩校造士館で学ぶ。戊辰戦争に従軍。明治2年(1869年)、昌平学校に入り、さらに川田甕江塾で学び、明治3年12月(1871年1-2月)にドイツへ留学し、ローレンツ・フォン・シュタインに学ぶ。
明治7年(1874年)3月に帰国。同年8月、外務省に入り八等出仕となる。9月、一等書記生に発令され、ドイツ公使館在勤を命ぜられた。さらに、露国公使館、オーストリア公使館で勤務し、明治14年(1881年)8月に帰国した。同年10月、大蔵省権大書記官となり議案局に勤務。さらに、外務権大書記官、参事院員外議官補を兼務した。
明治15年(1882年)2月から翌年8月まで、参議・伊藤博文に随行して欧州に出張し、ドイツでシュタインから行政学を学んだ。明治17年(1884年)4月、大蔵省調査局勤務となり、大蔵大書記官、欧州出張(財務事務調査)、一等主税官、大蔵省参事官などを歴任した。
明治23年(1890年)3月に退官し、同年7月、第1回衆議院議員総選挙に鹿児島県第五区から出馬し当選。その後、明治27年(1894年)9月の第4回総選挙まで連続4回当選した。その間、立憲自由党幹事などを務めた。
明治30年(1897年)6月、日本勧業銀行初代総裁に就任。その後、滋賀県・福岡県の各知事、北海道庁長官を歴任。また、明治36年(1903年)7月15日、貴族院勅選議員に任命され[1]、北海道庁長官在任中に死去するまで務めた。
栄典
[編集]- 1882年(明治15年)3月11日 - 勲五等双光旭日章[2]
- 1902年(明治35年)6月30日 - 勲三等瑞宝章[3]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲二等旭日重光章[4]・明治三十七八年従軍記章[5]
著作・伝記
[編集]- 編著
- スタイン述『憲法及行政法要義』集成社、1889年。
- 伝記
- 河野弘善『河島醇伝 - 日本勧業銀行初代総裁』河島醇伝刊行会、1981年。
脚注
[編集]- ^ 『官報』第6011号、明治36年7月16日。
- ^ 「参事院議官補西園寺公望外八名叙勲」 アジア歴史資料センター Ref.A15110025800
- ^ 『官報』第5696号「叙任及辞令」1902年7月1日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
- ^ 『官報』第7578号・付録「辞令」1908年9月28日。