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浅田徳則

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
浅田徳則
あさだ とくのり
生年月日 1848年11月21日
出生地 日本の旗 日本 京都
没年月日 (1933-03-30) 1933年3月30日(84歳没)
前職 弁理公使
所属政党 同和会
称号 昭和六年乃至九年事変従軍記章
大礼記念章
勲一等瑞宝章
正三位
従三位
勲二等旭日重光章
正四位
美治慈恵第二等勲章
大日本帝国憲法発布記念章
勲四等旭日小綬章
従五位

在任期間 1903年9月23日 - 1933年3月30日

広島県の旗 官選 第4代 広島県知事
在任期間 1897年4月7日 - 1898年5月14日

新潟県の旗 官選 第7代 新潟県知事
在任期間 1896年2月6日 - 1897年4月7日

長野県の旗 官選 第3代 長野県知事
在任期間 1891年4月9日 - 1896年2月6日

神奈川県の旗 官選 第2・5代 神奈川県知事
在任期間 1889年12月26日 - 1891年4月9日
1898年5月14日 - 1900年6月16日
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浅田 徳則(あさだ とくのり、1848年11月21日嘉永元年10月26日) - 1933年3月30日)は、日本官僚外交官政治家貴族院議員幼名は泰治。[要出典]

来歴

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京都出身。浅田金吾の長男として生まれる。慶応4年5月1868年6-7月)、久美浜県書記として出仕し、同県権大属、生野県准大属を歴任。明治4年9月1871年10-11月)、大蔵省に移り戸籍権中属に任じられ、戸籍寮九等出仕、国債寮八等出仕などとなる。

1874年9月、外務省に移り外務一等書記生として米国公使館勤務となる。以後、外務省公信局長心得、取調局長、公信局長、通商局長、兼会計局長、弁理公使などを歴任した。

1889年12月、知事に任命され、さらに、長野県知事新潟県知事広島県知事などを歴任した。

1900年6月、外務省総務長官次官)兼官房長に就任。1901年6月には逓信総務長官となり1903年9月まで在任。同年同月23日、貴族院勅選議員となり[1]同和会に属し死去するまで在任。1903年11月9日、錦鶏間祗候に任じられた[2]後に実業界に転身し東京電力などの社長を務めた。[要出典]墓所は多磨霊園

栄典

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位階
勲章等
外国勲章等佩用允許

家族・親族

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家族

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  • 父:浅田金吾
    • みつ(次女、渡干城の妻[15]
    • 勝(四女、狩野宗三の妻[16]

親族

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  • 大木良輔(実業家) - 狩野宗三の兄[17]

脚注

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  1. ^ 『官報』第6071号、明治36年9月25日。
  2. ^ 『官報』第6108号、明治36年11月10日。
  3. ^ 『官報』第301号「叙任及辞令」1884年7月1日。
  4. ^ 『官報』第3491号「叙任及辞令」1895年2月21日。
  5. ^ 『官報』第5013号「叙任及辞令」1900年3月22日。
  6. ^ 『官報』第6101号「叙任及辞令」1903年10月31日。
  7. ^ 『官報』第1473号「叙任及辞令」1888年5月30日。
  8. ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
  9. ^ 『官報』第4350号「叙任及辞令」1898年1月4日。
  10. ^ 『官報』第4949号「叙任及辞令」1899年12月28日。
  11. ^ 『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。
  12. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  13. ^ 『官報』第3068号「敍任及辞令・二」1937年3月27日。
  14. ^ 『官報』第2471号「叙任及辞令」1891年9月22日。
  15. ^ 渡干城”. 『人事興信録』第8版(名古屋大学大学院法学研究科人事興信録データベース). 人事興信所 (1928年7月). 2021年1月3日閲覧。
  16. ^ 狩野宗三”. 『人事興信録』第8版(名古屋大学大学院法学研究科人事興信録データベース). 人事興信所 (1928年7月). 2020年12月9日閲覧。
  17. ^ a b 大木良輔”. 『人事興信録』第8版(名古屋大学大学院法学研究科人事興信録データベース). 人事興信所 (1928年7月). 2020年12月9日閲覧。

参考文献

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先代
新設
外務省通商局長
1886年 - 1889年
次代
河上謹一