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堀内謙介

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ほりのうち けんすけ

堀内 謙介
生誕 1886年3月30日
日本の旗 日本兵庫県多紀郡篠山町(現・丹波篠山市
死没 (1979-11-01) 1979年11月1日(93歳没)
国籍 日本の旗 日本
出身校 旧制山口高等学校卒業
第一高等学校卒業
東京帝国大学法科大学政治学科卒業
職業 外交官補清国
青島総領事
在中国大使館参事官
在米大使館参事官
ニューヨーク総領事
外務省調査部長兼アメリカ局長
外務次官
駐米大使
外務省官吏研修所事務取扱
中華民国大使
親戚 兄:堀内三郎 海軍中将、弟:堀内延一 庭師、甥:堀内雄之 俳人
受賞 勲一等旭日大綬章1944年
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堀内 謙介(ほりのうち けんすけ、1886年明治19年〉3月30日 - 1979年昭和54年〉11月1日)は、日本の外交官。1930年代後半に外務次官及び駐米大使、戦後は駐中華民国(台湾)大使を務めた。

経歴

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兵庫県多紀郡篠山町(のち丹波篠山市)にて旧篠山藩士堀内令順の次男として生まれる[1]私立尋常中学鳳鳴義塾旧制山口高等学校第一高等学校を経て、1910年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。東京帝大在学中の1909年文官高等試験合格[2]、さらに1911年10月の外交官及領事官試験に合格(同期は重光葵芦田均・縫田栄四郎・栗野昇太郎・村上義温酒匂秀一桑島主計[3]、翌11月に外交官補に任じられ清国在勤を命じられた。

その後、英国(領事官補・外交官補・大使館一等書記官)、青島(総領事)、中華民国アメリカ(大使館参事官)に赴任。この間、1928年にはパリ不戦条約(戦争抛棄ニ関スル条約)会議に臨む全権委員内田康哉の随員(他に川西豊蔵領事・鈴木九萬外務事務官)[4]を務めた。

1930年1月に在ニューヨーク総領事、1934年3月に外務省調査部長、同年6月よりアメリカ局長兼任を経て、1936年4月に外務次官に累進した。以後、対満事務局参与・拓務省拓務局参与・内閣調査局参与・企画院参与を兼務。

1938年10月より駐米特命全権大使キューバ駐箚特命全権公使を務めた後(後任は野村吉三郎海軍大将)、1940年12月に依願退官。太平洋戦争終戦直後、1945年9月から翌年5月まで内務省顧問に任命された。

戦後は、外務省官吏研修所長事務取扱・同所講師を務め、1955年から1959年まで駐中華民国(台湾)大使に任じられた。

栄典

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位階

勲章等

外国勲章佩用允許

親族

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著書

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脚注

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  1. ^ 人事興信所編刊『第十三版 人事興信録 下』1941年、ホ28頁。
  2. ^ 『官報』1909年11月4日広告「文官高等試験合格者」。
  3. ^ 『官報』1911年10月18日広告「外交官及領事官試驗及第者」。
  4. ^ 『官報』1928年8月8日「叙任及辞令」。
  5. ^ 『官報』1921年2月1日「叙任及辞令」。
  6. ^ 『官報』1923年10月2日「叙任及辞令」。
  7. ^ 『外務省報』第170号、1929年1月1日。
  8. ^ 『官報』1934年1月18日「叙任及辞令」。
  9. ^ 『官報』1939年1月30日「叙任及辞令」。
  10. ^ 『官報』1940年12月28日「叙任及辞令」。
  11. ^ 『官報』1916年8月21日「叙任及辞令」。
  12. ^ 『官報』1920年9月8日「叙任及辞令」。
  13. ^ 『官報』1924年6月3日「叙任及辞令」。
  14. ^ 『官報』1930年12月12日「叙任及辞令」。
  15. ^ 『官報』1938年11月5日「叙任及辞令」。
  16. ^ 『官報』1941年10月23日付録「辞令二」。
  17. ^ 『官報』1944年7月7日「叙任及辞令」。
  18. ^ 『官報』1937年11月26日「叙任及辞令」。
  19. ^ 『官報』1938年4月28日「叙任及辞令」。
  20. ^ 『官報』1938年11月8日「叙任及辞令」。
先代
欧米局から分離
外務省亜米利加局長
1934年 - 1936年
次代
岡本季正
先代
重光葵
外務次官
1936年 - 1938年
次代
沢田廉三