千頭清臣
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千頭 清臣(ちかみ きよおみ、1856年12月5日(安政3年11月8日) - 1916年(大正5年)9月9日)は、日本の教育者、内務官僚、政治家。官選県知事、貴族院議員、錦鶏間祗候。幼名・徳馬。
経歴
[編集]土佐藩士・千頭清雄の二男として生まれる。1880年、東京大学文学部を卒業。1881年7月、東京大学予備門教諭に就任。1886年、イギリスに留学。帰国後、第一高等中学校教諭となり、さらに、鹿児島高等中学造士館教授、高知県尋常中学校長、第二高等学校教授を歴任。
1896年8月、内務省に転じ、内務書記官兼内務省参事官に就任。1897年11月、栃木県知事(「栃木県知事一覧」参照)に就任。以後、宮城県・新潟県・鹿児島県の各知事を歴任。1907年12月、鹿児島県知事を辞し、同年12月10日、貴族院勅選議員に任じられ[1]、死去するまで在任した。1911年10月14日、錦鶏間祗候を仰せ付けられた[2]。墓所は青山霊園(1ロ25-2)
栄典
[編集]- 位階
- 1891年(明治24年)12月21日 - 従六位[3]
- 1896年(明治29年)9月21日 - 正六位[4]
- 1897年(明治30年)11月30日 - 正五位[5]
- 1902年(明治35年)12月20日 - 従四位[6]
- 勲章
- 外国勲章佩用允許
- 1906年(明治39年)4月28日 - イギリス帝国:ロイヤル・ヴィクトリア勲章コマンダー[9]