藤山竹一
藤山 竹一(ふじやま たけいち、1885年(明治18年)12月[1] - 1930年(昭和5年)2月12日[2])は、佐賀県出身の日本の内務・警察官僚。政友会系官選県知事。板垣退助伯爵彰徳会(日光板垣会)初代名誉会長。
来歴
[編集]佐賀県出身。大地主・藤山ミスの三男として生まれた[1]。第五高等学校を卒業。1910年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し富山県属となる[1][3]。
1911年4月、富山県試補となる。以後、同事務官補、同教育課長、同警視・警察部警務課長、和歌山県理事官・学務課長、同視学官などを経て、1918年1月、福島県警察部長に就任。1919年6月に休職。1920年9月、長崎県警察部長となる。その後、福岡県警察部長を経て山口県内務部長に転任[1]。
1927年(昭和2年)5月、大分県知事に就任。政友会色の強い県政運営を行い、農山漁村の振興、道路網の整備に力を注いだ[1]。1928年(昭和3年)6月、栃木県知事に転任。同12月、栃木県日光町に「板垣退助伯爵彰徳会」が設立され、名誉会長に藤山竹一栃木県知事、会長は日光町長、評議員に輪王寺門跡、日光東照宮宮司、二荒山神社宮司、日光町助役、日光精銅所長ら16名が名を連ねた[4]。
前任地の大分県とは異なり、公平な県政を行うことを表明したが、県会での政友会、民政党の勢力争いにより、1929年(昭和4年)、栃木県選出の民政党所属帝国議会議員が、「知事に対する誹謗質問書」を議会に提出した事件が起こった[6]。同年7月、休職[7]となり、同年に退官した[3]。 1930年(昭和5年)2月12日逝去。
補註
[編集]参考文献
[編集]- 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
- 『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 1 (政治・経済・社会篇)』日外アソシエーツ株式会社、2012年。