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相馬敏夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

相馬 敏夫(そうま としお、1898年明治31年)7月6日[1] - 1980年昭和55年)2月24日[2])は、日本の大蔵官僚実業家。官選栃木県知事明治製糖社長。旧姓・上平。

経歴

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長野県下伊那郡飯田町(現・飯田市)出身[3]。上平猶一の三男として生まれる[4]。旧制長野県飯田中学校(現・長野県飯田高等学校)から旧制愛知県立第五中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)へ転じ[3]第八高等学校を卒業。1921年11月、高等試験行政科試験に合格。1922年東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。大蔵省に入省し理財局属となる[4][5][6]1923年相馬半治の養子となる[3]

以後、大蔵省銀行局勤務、英仏駐在・財務書記、横須賀税務署長、永代橋税務署長、東京地方専売局事業課長、専売局販売部販売課長、大蔵書記官・上海財務官事務所勤務、専売局参事官・長官官房総務課長、大蔵書記官・河内総領事、専売局煙草事業部長、大蔵省監理局長、東京都参事官などを歴任[4][7]

1944年11月、栃木県知事に就任し終戦を迎えた。空襲被害者の救済、食糧増産などに尽力。1946年1月、知事を辞職し退官[5]。その後、公職追放となる[6]

戦後は実業界に転じ、明治製糖社長、日本精糖工業会会長、協和銀行監査役、足利銀行監査役などを務めた[2][5]

著作

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  • 編『煙草販売事務例規総攬』専売協会、1939年。
  • 『キューバ訪問記』相馬敏夫、1972年。
  • 編『砂糖屋のにがい思い出』[1] 不況カルテルから構造改善へ [2] 糖安法成立とその前後、[相馬敏夫]、1978年。

脚注

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  1. ^ 『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 1 (政治・経済・社会篇)』693頁。
  2. ^ a b 『現代物故者事典 1980~1982』181頁。
  3. ^ a b c 『長野県歴史人物大事典』403頁。
  4. ^ a b c 『人事興信録』第15版 上、ソ2頁。
  5. ^ a b c 『新編日本の歴代知事』276頁。
  6. ^ a b 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』230頁。
  7. ^ 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』29頁。

参考文献

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  • 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
  • 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
  • 『現代物故者事典 1980~1982』日外アソシエーツ株式会社、1983年。
  • 『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 1 (政治・経済・社会篇)』日外アソシエーツ株式会社、2012年。
  • 人事興信所編『人事興信録』第15版 上、1948年。
  • 赤羽篤外編『長野県歴史人物大事典』郷土出版社、1989年。