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江木千之

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
江木 千之
えぎ かずゆき
生年月日 (1853-05-21) 1853年5月21日嘉永6年4月14日
出生地 周防国玖珂郡岩国城下(現・山口県岩国市
没年月日 (1932-08-23) 1932年8月23日(79歳没)
所属政党 茶話会
称号 従二位勲一等
配偶者 ナカ(西田明則養女)
子女 (養子・羽村卯作三男)、ヒデ(長女・翼妻)
親族 俊敬(父)、(弟)、精夫(同)

日本の旗 第33代文部大臣
内閣 清浦内閣
在任期間 1924年1月7日 - 6月11日

在任期間 1924年6月28日 - 1932年8月23日

選挙区勅選議員
在任期間 1904年8月22日 - 1924年7月3日

在任期間 1903年6月29日 - 1907年1月11日

在任期間 1898年12月28日 - 1903年6月29日

その他の職歴
愛知県の旗 愛知県知事
1897年11月13日 - 1898年12月28日)
栃木県の旗 栃木県知事
(1897年4月7日 - 1897年11月13日)
茨城県の旗 茨城県知事
1896年2月6日 - 1897年4月7日)
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江木 千之(えぎ かずゆき、1853年5月21日嘉永6年4月14日[1] 〉 - 1932年昭和7年〉8月23日[1])は、明治時代から大正時代にかけての日本文部内務官僚政治家は狂塢。

文部省普通学務局長、内務省県治局長、茨城栃木愛知広島県知事貴族院議員文部大臣皇典講究所長、全国神職会長、枢密顧問官を歴任した。

生涯

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周防国岩国藩出身[1]岩国藩士・江木仙左衛門俊敬の長男として生まれる(幼名・吉太郎)[2]1870年明治3年)、藩命により大阪開成所で外国語を学び[2]、翌年より開拓使仮学校大学南校工部省工学寮などに学ぶ。1874年明治7年)に文部省に出仕し、会計局副長、視学官参事官、普通学務局長を歴任[1]1890年第二次小学校令制定の際には、起草者となった。

1891年(明治24年)に一度退官したのち内務省に入り、大臣秘書官、県治局長、茨城栃木愛知広島熊本県知事を務めた[1]1904年(明治37年)8月22日に貴族院勅選議員に任じられた[1][3]1907年(明治40年)の再退官後は貴族院議員として活動する他、同年6月22日に錦鶏間祗候に任じられ[1][4]、また臨時教育会議などの諸審議会委員にも選ばれている[1]

1924年大正13年)には清浦内閣文部大臣に就任し、晩年は枢密顧問官文政審議会副総裁を務めた[1]。文政審議会では軍事予備教育の特別委員会委員長を務め、1935年(大正14年)に発布された陸軍現役将校学校配属令につながる諮詢案を取りまとめた[5]。この間、養子の江木翼が憲政会立憲民政党総裁の顧問となったことから同党に接近した。また、防長教育会全国神職会両会長、大東文化協会副会頭、皇典講究所所長も歴任している。墓所は青山霊園

親族

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栄典・受章・受賞

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江木千之
位階
勲章等
外国勲章佩用允許

著作

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  • 江木千之翁経歴談』上下、江木千之翁経歴談刊行会編、江木千之翁経歴談刊行会、1933年11月 / 大空社〈伝記叢書〉、1987年9月 / 芳文閣、1992年3月
  • 詩集」「母を懐ふ記」(江木千之翁経歴談刊行会編 『江木千之翁経歴談附録』 江木千之翁経歴談刊行会、1933年12月)

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an 江木千之」 アジア歴史資料センター Ref.A06051178000 
  2. ^ a b 江木千之『人事興信録. 第8版(昭和3年)』(人事興信所, 1928)
  3. ^ 『官報』第6345号、明治37年8月23日。
  4. ^ 『官報』第7194号、明治40年6月24日。
  5. ^ 文政審議会総会で軍事教育案を可決『東京朝日新聞』大正14年1月11日(『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p159 大正ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  6. ^ 『官報』第578号「賞勲叙任」1885年6月6日。
  7. ^ 『官報』第2932号「叙任及辞令」1893年4月12日。
  8. ^ 『官報』第4570号「叙任及辞令」1898年9月21日。
  9. ^ 『官報』第6076号「叙任及辞令」1903年10月1日。
  10. ^ 『官報』第343号「叙任及辞令」1928年2月22日。
  11. ^ 『官報』第1937号「叙任及辞令」1889年12月11日。
  12. ^ 『官報』第5848号「叙任及辞令」1902年12月29日。
  13. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
  14. ^ 『官報』第7578号・付録「辞令」1908年9月28日。
  15. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  16. ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。

参考文献

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関連文献

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  • 「江木副総裁の思ひ出」「江木副総裁薨去」(『国学院雑誌』第38巻第10号、1932年10月)
  • 伊東延吉 「江木千之先生の追想」(『文部時報』第730号、帝国地方行政学会、1941年7月)
  • 伊藤隆 「江木千之・江木翼関係文書」(『社会科学研究』第26巻第2号、東京大学社会科学研究所、1975年1月、NAID 110000463985
  • 伊藤敏行 「解説」(前掲 『江木千之翁経歴談 下』 大空社〈伝記叢書〉、1987年9月)
  • 季武嘉也 「江木千之」(伊藤隆、季武嘉也編 『近現代日本人物史料情報辞典』 吉川弘文館、2004年7月、ISBN 4642013415

外部リンク

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公職
先代
服部一三
日本の旗 広島鉱山管理長
1898年 - 1903年
次代
徳久恒範
先代
岡野敬次郎
日本の旗 航空評議会会長
1924年
次代
岡田良平
その他の役職
先代
小橋一太
全国神職会
1926年 - 1932年
次代
水野錬太郎