岩動道行
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岩動 道行 いするぎ みちゆき | |
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生年月日 | 1913年10月15日 |
出生地 | 岩手県紫波郡赤石村(現・紫波町) |
没年月日 | 1987年1月25日(73歳没) |
死没地 | 東京都大田区 東邦大学医学部付属大森病院 |
出身校 | 京都帝国大学法学部卒業 |
所属政党 | 自由民主党 |
称号 |
従三位 勲一等瑞宝章 |
配偶者 | 岩動麗 |
親族 |
祖父・小田貫一(元広島市長) 岳父・林譲治(元衆議院議長) 従兄弟・岸田和子(岸田正記の妻) |
第37代 科学技術庁長官 | |
内閣 | 第2次中曽根内閣 |
在任期間 | 1983年12月27日 - 1984年11月1日 |
選挙区 | 岩手県選挙区 |
当選回数 | 4回 |
在任期間 | 1968年6月9日 - 1987年1月25日 |
選挙区 | 旧岩手1区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1963年11月21日 - 1966年12月27日 |
岩動 道行(いするぎ みちゆき、1913年〈大正2年〉10月15日 - 1987年〈昭和62年〉1月25日)は、日本の大蔵官僚、政治家。自由民主党衆議院議員(1期)・参議院議員(4期)。科学技術庁長官。
元衆議院議長林譲治の女婿。元衆議院議員岸田正記の妻・和子はいとこに当たる[1]。
経歴
[編集]岩手県紫波郡赤石村(現:紫波町)に生まれた。岩動康治の二男。
盛岡中学、旧制府立高校を経て、1939年、京都帝国大学法学部卒業、大蔵省に入省。為替局属。広島税務署長、吉田内閣総理大臣秘書官、主計局主計官(文部、厚生担当)、管財局閉鎖機関課長、管財局特殊清算課長、外務省在英国大使館参事官などを歴任。1960年2月1日、東海財務局長。同年8月5日に退官し、その年に行われた衆院選に旧岩手1区から自民党公認で出馬したが落選。
3年後の1963年の衆院選に旧岩手1区から再び出馬し初当選を果たしたが、1967年の衆院選で再び落選。参院への鞍替えを目指し1968年の参院補選に岩手県選挙区から出馬し当選。以降連続当選4回。党内では宏池会に属し、行政管理政務次官、参院大蔵委員長などを経て、1983年12月に第2次中曽根内閣の科学技術庁長官として初入閣を果たした。
1987年1月25日、心筋梗塞のため東京都大田区の東邦大学医学部付属大森病院で現職議員のまま死去、73歳没[2]。死没日をもって勲一等瑞宝章追贈、従六位から従三位に叙される[3]。
家族・親族
[編集]岩動家
[編集]- (岩手県紫波郡赤石村(現:紫波町))
- 天正十年(1582年)、前田利家に石動山を焼かれた岩動家の先祖である天台宗の僧侶・石動大円慧我(だいえんけいが)が、岩手県紫波郡に落ち延びて阿吽山覚王寺(あうんざんかくおうじ)を建立[4]。その後紫波郡に根を下し、廃藩置県で南部藩が岩手県になったところで石動を“岩動”姓に変えたといわれているが定かではない[4]。
- 10代目の岩動正雄(昭和11年(1936年)1月21日没)が紫波町北日詰に医師を開業[4]。11代目・岩動孝久は石川啄木・野村胡堂・金田一京助などと知己であり、露子の俳名で俳句をものした[4]。孝久の実弟・康治(道行の父)も兄の影響で炎天の俳名で句作に親しんでいる[4]。12代目の岩動隆一(岩手医専卒)は、妻・すみ(東京女子医専卒)とともに昭和11年(1936年)盛岡市仁王小路(現在の大通三丁目)に医院を開業し、現在も岩動医院として現存している[4]。
- 父・康治
- 母・高子(広島県、小田貫一の娘)
- 妻・麗(元衆議院議長林譲治の長女。1926年生まれ[5]。共立女子専門学校専修科(現・共立女子大学)卒[5]。夫の死去直後の補選に岩手県選挙区から自民党公認で出馬したが、内閣提出の売上税法案への逆風から、社会党公認の小川仁一に敗れた。ガールスカウト日本連盟副会長、同岩手県支部長などを務めた[5]。2018年(平成30年)現在、存命中[6]。)
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『岩手人名大鑑』1986年版、岩手日報社、1986年。
公職 | ||
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先代 安田隆明 |
科学技術庁長官 第37代:1983年 -1984年 |
次代 竹内黎一 |
先代 安田隆明 |
総理府原子力委員会委員長 第37代:1983年 -1984年 |
次代 竹内黎一 |
議会 | ||
先代 檜垣徳太郎 |
参議院大蔵委員長 1976年-1977年 |
次代 安田隆明 |