高橋令則
高橋 令則 たかはし よしのり | |
---|---|
生年月日 | 1934年9月29日 |
出生地 | 岩手県岩手郡松尾村 |
没年月日 | 2016年9月3日(81歳没) |
出身校 | 早稲田大学法学部卒業 |
前職 | 岩手県庁職員 |
所属政党 |
(新進党→) (自由党→) (民主党→) 生活の党 |
称号 | 学士(早稲田大学) |
選挙区 | 岩手県選挙区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1995年7月 - 2001年7月22日 |
高橋 令則(たかはし よしのり、1934年(昭和9年)9月29日[1] - 2016年(平成28年)9月3日)は、日本の政治家。
岩手県出納長、岩手県副知事、参議院議員(1期)、自由党岩手県総支部連合会会長などを歴任した。
来歴
[編集]生い立ち
[編集]1934年に岩手県岩手郡松尾村[1](現八幡平市)で生まれた。早稲田大学法学部を卒業[1]。
官界にて
[編集]1962年(昭和37年)岩手県庁に入庁した[1][2]。要職を歴任し、岩手県知事の中村直の下では出納長を務めた[3]。後任の知事である工藤巌の下では副知事を務めた[2]。工藤の退任にともない、1995年4月29日に副知事を退任した[2]。同年、第17回参議院議員通常選挙への立候補を表明した。新進党の公認を受け、岩手県選挙区にて当選を果たした[1][4]。
国会議員として
[編集]新進党の分党に際しては、自由党の結成に参画した[1]。自由党においては、岩手県総支部連合会の会長などを務めた。また、参議院においては、農林水産委員会などに所属した。国政の場では、地方分権などを主張した。
第19回参議院議員通常選挙で改選を迎えることから、自由党から公認され、岩手県選挙区での立候補が予定されていた[5]。また、民主党岩手県総支部連合会からも、選挙協力を受けられる見通しとなっていた[5]。しかし、自身の健康問題から不出馬を決断した[5]。党首の小沢一郎からは「やれないのか、やってくれないか」[5]と再三慰留されたものの、最終的に「(体調のことであれば)やむを得ない」[5]と了承された。これを受け、記者会見を開き「慰留は相当前からあった。党人たるもの、最大限 気力体力が続く限り、と思っていたが、しかし限界に来たと言わざるを得ない」[5]と述べ、政界引退を表明した。その後、自由党は高橋に代わって平野達男を擁立し、岩手県選挙区にて当選を勝ち取った。
政界引退後
[編集]2004年の第20回参議院議員通常選挙では、主濱了の選対総括責任者を務めた[6]。また、「たっそ拓也後援会連合会」の会長に就任し[7][8]、岩手県知事選挙にて達増拓也を支援した[7]。その後、生活の党が結成されると、岩手県総支部連合会にて工藤堅太郎らとともに顧問に就任した[9]。
2016年9月3日5時50分、心不全のため、岩手県滝沢市内の病院で死去。81歳没[10]。叙従四位、旭日中綬章追贈[11]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f 『現代政治家人名事典』260頁。
- ^ a b c 「平成7年5月臨時会――第1回岩手県議会臨時会会議録」『岩手県議会会議録 全文表示』岩手県議会事務局議事調査課、1995年5月10日。
- ^ 「夢のかけはし」『夢のかけはし物語:::いわて純情米ホームページ::』いわて純情米需要拡大推進協議会。
- ^ 『国政選挙総覧:1947-2016』414頁。
- ^ a b c d e f 伊波伴准「『老兵は死なず消えるのみ』」20010210の雑感: 伊波 伴准 (岩手朝日テレビ) - ウェイバックマシン(2016年3月4日アーカイブ分)
- ^ 「主役――お国入りに熱い視線」『主役 お国入りに熱い視線 <対決 04年いわて参院選:上> - asahi.com : 2004参院選 : 都道府県ニュース』朝日新聞社、2004年6月3日。
- ^ a b 「達増氏が再選出馬を表明――来春の知事選」『盛岡タイムス Web News』盛岡タイムス社、2010年12月19日。
- ^ 「参院選が反攻の第1歩――生活の党の小沢一郎氏――支持者前に決意示す――達増知事県政報告会で」『盛岡タイムス Web News』盛岡タイムス社、2013年1月21日。
- ^ 「生活の党岩手県連役員」『県連役員一覧|生活の党岩手県総支部連合会』生活の党岩手県総支部連合会。
- ^ 元参院議員の高橋令則氏死去 - 時事ドットコム 2016年9月7日
- ^ 『官報』第6875号、平成28年10月11日
参考文献
[編集]- 『現代政治家人名事典』日外アソシエーツ、1999年。
- 『国政選挙総覧:1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。