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砂田重民

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
砂田重民
すなだ しげたみ
生年月日 1917年3月4日
出生地 兵庫県神戸市
没年月日 (1990-09-24) 1990年9月24日(73歳没)
死没地 東京都港区
虎の門病院
出身校 立教大学経済学部
前職 政治家秘書
所属政党 自由民主党中曽根派宮澤派
称号 正三位
勲一等
タイ王国王冠勲章一等(1987年[1]
親族 父・砂田重政(元衆議院議員、元防衛庁長官
従弟・砂田圭佑(元衆議院議員)

内閣 第2次海部内閣
在任期間 1990年2月28日 - 1990年9月13日

日本の旗 第99代 文部大臣
内閣 福田赳夫改造内閣
在任期間 1977年11月28日 - 1978年12月7日

選挙区 旧兵庫1区
当選回数 8回
在任期間 1963年11月22日 - 1972年11月13日
1976年12月10日 - 1979年9月7日
1980年6月23日 - 1990年9月24日
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砂田 重民(すなだ しげたみ、1917年3月4日 - 1990年9月24日)は、日本政治家衆議院議員文部大臣沖縄開発庁長官北海道開発庁長官などを務めた。父は自民党総務会長を務めた砂田重政。従弟は元衆議院議員の砂田圭佑

来歴・人物

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兵庫県神戸市出身。暁星学園を経て、立教大学経済学部卒業。河野一郎の秘書を経て、1963年第30回衆議院議員総選挙に父・重政の後継者として旧兵庫1区から出馬し初当選。当選同期に小渕恵三橋本龍太郎小宮山重四郎伊東正義田中六助渡辺美智雄佐藤孝行藤尾正行中川一郎三原朝雄鯨岡兵輔西岡武夫奥野誠亮などがいる。以後2回連続当選後、3期目途中で議員を辞職し、1972年の神戸市長選挙に、自民党と袂を分かった現職の宮崎辰雄に挑む形で立候補したが落選。同年12月の第33回衆議院議員総選挙でも次点であったが、1976年12月の第34回衆議院議員総選挙で返り咲いた。衆議院選挙の当選回数は通算8回。

1977年11月、衆院当選4回ながら福田内閣文部大臣として初入閣。1979年立教大学校友会会長[2]

自民党総務局長、予算委員長などを歴任後、1990年2月第2次海部内閣北海道開発庁長官沖縄開発庁長官に就任したが、病気のため任期途中で辞任した。その後、議員在職中となる同年9月24日、呼吸不全のため、東京都港区の虎の門病院で死去した[1]。73歳没。死没日付をもって正三位勲一等に叙された。追悼演説は同年11月1日の衆議院本会議で、渡部一郎により行われた[1]。墓所は小平霊園にある。

脚注

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議会
先代
小渕恵三
日本の旗 衆議院予算委員長
第43代:1986年 - 1987年
次代
浜田幸一
公職
先代
阿部文男
日本の旗 北海道開発庁長官
第54代:1990年
次代
木部佳昭
先代
阿部文男
日本の旗 沖縄開発庁長官
第23代:1990年
次代
木部佳昭
先代
海部俊樹
日本の旗 文部大臣
第99代:1977年 - 1978年
次代
内藤誉三郎
その他の役職
先代
大川又三郎
立教大学校友会会長
1979年 - 1987年
次代
利光達三