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石田貫之助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
石田貫之助
いしだ かんのすけ
生年月日 1850年1月13日
出生地 日本の旗 日本 但馬国朝来郡新井村
(現・兵庫県朝来市
没年月日 (1934-10-08) 1934年10月8日(84歳没)
所属政党立憲改進党→)
愛国公党→)
立憲自由党・自由党→)
憲政党→)
甲辰倶楽部
称号 正五位

選挙区 (兵庫県第4選挙区→)
(兵庫県第2選挙区→)
兵庫県郡部選挙区
当選回数 6回
在任期間 1890年 - 1897年12月25日
1898年 - 1902年8月9日
1904年 - 1908年3月27日

在任期間 1897年4月7日 - 1898年2月5日

兵庫県の旗 第3-9代 兵庫県会議長
在任期間 1881年2月 - 1890年7月

兵庫県の旗 第3代 兵庫県会副議長
在任期間 1880年5月 - 1881年2月

兵庫県の旗 兵庫県会議員
選挙区 美嚢郡選挙区
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石田 貫之助(いしだ かんのすけ、1850年1月13日(嘉永2年12月1日[1])- 1934年昭和9年)10月8日[2])は、明治から大正期の政治家兵庫県会議員衆議院議員富山県知事。旧姓は太田垣。

経歴

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但馬国朝来郡新井村の農業・酒造業の太田垣家に生まれ、石田小治郎の養子となる[1][3]

1879年に兵庫県会議員となり[3]1880年5月から1881年2月まで同副議長を、同月から1890年7月まで同議長を務めた[4]。また、同郡部会議長、同常置委員など務めた[2]立憲改進党に加わり、さらに愛国公党の創立委員となり、次いで自由党に入党した[1]

1890年7月、第1回衆議院議員総選挙に兵庫県第四区から出馬して当選。その後、第4回総選挙まで連続4回当選し、さらに第6回第9回総選挙でも当選し、通算6回の当選を果たした[2]

1897年4月7日第2次松方内閣により富山県知事に登用され、1898年2月5日まで在任した[1][5]

また、神戸又新日報の発刊に加わっている[2]

栄典

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脚注

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  1. ^ a b c d 『新編日本の歴代知事』424頁。
  2. ^ a b c d 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』61-62頁。
  3. ^ a b 『衆議院議員列伝』3頁。
  4. ^ 兵庫県議会/歴代の議長・副議長”. web.pref.hyogo.lg.jp. 2022年2月15日閲覧。
  5. ^ 富山県. “歴代の知事・副知事”. 富山県. 2022年2月15日閲覧。
  6. ^ 『官報』第4172号「叙任及辞令」1897年6月1日。

参考文献

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  • 山崎謙編『衆議院議員列伝』衆議院議員列伝発行所、1901年。
  • 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。