檜垣直右
表示
この記事で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。 |
檜垣 直右(ひがき なおすけ、1851年11月1日(嘉永4年10月8日) - 1929年7月26日)は、日本の教育者、文部・内務官僚。官選県知事、錦鶏間祗候。旧姓・宇野、幼名・安之進。
経歴
[編集]長州藩士・宇野次荘右衛門の二男として生まれ、檜垣五百重の養子となる。1874年1月、東京師範学校を卒業し、同年3月、名東県三等訓導となる。
1876年12月、愛媛県讃岐師範学校長に就任。1882年5月、愛媛県師範学校長となる。1883年7月、石川県に転じ二等属となり、1886年12月24日、石川県尋常師範学校長に就任[1]。1887年12月、文部省に転じ視学官となり、以後、同省第一地方部担任、普通学務局第一課長、第三地方部担任、普通学務局第三課長兼第二課長などを歴任。
1893年2月、内務省に転じ秋田県書記官に就任。福島県書記官を経て、1900年1月、富山県知事に就任。1902年2月に岡山県知事に着任すると、宇野港改築三ヶ年継続事業案などを岡山県会に提案したが、戦後負担の増大などのため大差で議案は否決された[2]。それでも築港計画を推進し、内務大臣の指揮を受けて1906年(明治39年)1月から知事権限で宇野港改築の原案執行を告示した[2]。1906年8月の起工式直前、7月28日に休職。1908年7月27日、休職満期となる[3]。
1910年10月、朝鮮総督府、京畿道長官として復帰。1916年3月まで在任し退官。1917年12月15日、錦鶏間祗候を仰せ付けられた[4]。
築港計画を進めた宇野港には檜垣の像が建てられている[2]。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章等
- 1895年(明治28年)3月12日 - 木杯一個[7]
- 1900年(明治33年)12月20日 - 勲五等瑞宝章[8]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲三等旭日中綬章[9]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[10]
脚注
[編集]- ^ 『官報』第1049号、明治19年12月27日。
- ^ a b c “宇野線の開通と宇野港の発展”. 玉野市教育委員会・玉野市文化財保護委員会. 2023年5月31日閲覧。
- ^ 『官報』第7528号、明治41年7月30日。
- ^ 『官報』第1613号、大正6年12月17日。
- ^ 『官報』第7581号「叙任及辞令」1908年10月1日。
- ^ 『官報』第1017号「叙任及辞令」1915年12月21日。
- ^ 『官報』第3555号「彙報 - 褒賞」1895年5月9日。
- ^ 『官報』第5243号「叙任及辞令」1900年12月21日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
参考文献
[編集]
公職 | ||
---|---|---|
先代 (新設) |
朝鮮総督府京畿道長官 1910年 - 1916年 |
次代 松永武吉 |
先代 土師双他郎 校長心得 |
石川県尋常師範学校長 1886年 - 1887年 |
次代 土師双他郎 校長事務代理 |
先代 松本英忠 愛媛県伊予師範学校長 |
愛媛県師範学校長 1877年 - 1883年 |
次代 山県悌三郎 校長心得 |