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西村直己

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
西村 直己
にしむら なおみ
防衛庁ドイツヘルムート・シュミット国防大臣(当時)と懇談する西村(1971年11月27日)
生年月日 1905年10月8日
出生地 日本の旗 日本東京府
没年月日 (1980-07-28) 1980年7月28日(74歳没)
出身校 東京帝国大学法学部
所属政党民主自由党→)
自由党→)
自由民主党

日本の旗 第13・27代 防衛庁長官
内閣 第2次池田内閣
第3次佐藤改造内閣
在任期間 1960年12月8日 - 1961年7月18日
1971年8月2日 - 1971年12月3日

日本の旗 第39代 農林大臣
内閣 第2次佐藤第1次改造内閣
在任期間 1968年2月3日 - 1968年11月30日

選挙区 静岡県第1区
当選回数 10回
在任期間 1949年1月24日 - 1976年12月9日

その他の職歴
第15代 自由民主党政務調査会長
(総裁:佐藤栄作
1966年 - 1967年
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西村 直己(にしむら なおみ、1905年10月8日[1] - 1980年7月28日[1])は、日本内務官僚、政治家。衆議院議員

来歴・人物

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東京府出身。東京府立第四中学校[要出典]第一高等学校文科甲類[2]1929年東京帝国大学政治学科卒業[1]後、内務省に入省。静岡県警察部長[1]鈴木貫太郎内閣総理大臣秘書官[3]、警視庁保安部長、同警務部長、官選の高知県知事[1]内事局第二局長、内務省調査局長などを経て、1949年の衆議院議員選挙に静岡1区(中選挙区)から出馬し初当選。連続10回当選。衆議院建設委員会委員長、予算委員会委員長を経て1960年第2次池田内閣防衛庁長官として初入閣。

自由民主党政務調査会長農林大臣など要職を歴任した後、1971年全日空機雫石衝突事故増原惠吉防衛庁長官が引責辞任した後を受けて入閣したが、記者会見で「国連は田舎の信用組合みたいなもの」「中共が国連入ってくればますます悪くなるかもしれない」「モルジブは土人国だ。あんなのだって票を持っている。」と発言したため「国連軽視・発展途上国蔑視」との批判を浴び、辞任に追い込まれた[4]

1976年政界引退。1980年7月、心筋梗塞で死去、享年74。

著書

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  • 『モスクワの異風客』産業経済新聞社 1954年。

脚注

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  1. ^ a b c d e 西村 直己』 - コトバンク
  2. ^ 「第一高等学校一覧 大正12年至13年」国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2023年4月30日閲覧。
  3. ^ 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』26頁。
  4. ^ 『朝日新聞』(東京本社発行)1971年12月4日、朝刊1頁。


議会
先代
小川半次
日本の旗 衆議院予算委員長
1960年
次代
船田中
先代
薩摩雄次
日本の旗 衆議院建設委員長
1957年 - 1958年
次代
堀川恭平
公職
先代
江﨑真澄
増原惠吉
日本の旗 防衛庁長官
第13代:1960年 - 1961年
第27代:1971年
次代
藤枝泉介
江﨑真澄
先代
倉石忠雄
日本の旗 農林大臣
第39代:1968年
次代
長谷川四郎
党職
先代
水田三喜男
自由民主党政務調査会長
第15代:1966年 - 1967年
次代
大平正芳
官職
先代
吉富滋
高知県の旗 高知県知事
官選第42代:1946年 - 1947年
次代
廃止