小瀧彬
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小瀧 彬 こだき あきら | |
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生年月日 | 1904年7月1日 |
出生地 | 島根県雲南市(旧飯石郡三刀屋町) |
没年月日 | 1958年5月28日(53歳没) |
死没地 | 東京都世田谷区 自衛隊中央病院 |
出身校 | 東京帝国大学経済学部中退 |
前職 | 国際捕鯨委員会日本政府代表 |
所属政党 |
(自由党→) 自由民主党 |
称号 |
正三位 勲二等旭日重光章 |
第6代・第7代 防衛庁長官 | |
内閣 |
石橋内閣 第1次岸内閣 |
在任期間 | 1957年2月2日 - 1957年7月10日 |
選挙区 | 島根県選挙区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1952年1月 - 1958年5月28日 |
小瀧 彬(小滝 彬、こだき あきら、明治37年(1904年)7月1日 - 昭和33年(1958年)5月28日)は、日本の外務・商工官僚、政治家。参議院議員(2期)、防衛庁長官(第6代、第7代)。位階は正三位。
来歴
[編集]島根県雲南市(旧飯石郡三刀屋町)出身。東山中学、旧制松江高校文科甲類[1]を経て、1927年東京帝国大学経済学部。
総領事、外務省情報部長、貿易庁輸出局長、通商産業省通商監、国際捕鯨委員会日本政府代表、終戦連絡大阪事務局局長。戦時中は陸軍司政官に任命された[2]。
1950年に行われた第2回参議院議員通常選挙の島根県選挙区に自由党公認で立候補。国民民主党公認の櫻内義雄にわずか389票差で敗れた。しかし小瀧側は、櫻内の票の中に無効票(櫻内義雄の父櫻内幸雄の名を書いたものが義雄の有効票に数えられていた)が含まれているとの訴えを起こした。その結果、小瀧側の訴えが認められ、1952年1月に小瀧が当選者となった。
1953年5月から1954年7月まで第5次吉田内閣で外務政務次官を務め、1957年には石橋内閣と第1次岸内閣で防衛庁長官を務めた。
1958年5月28日、癌のため東京都世田谷区の自衛隊中央病院で現職のまま死去、53歳[3]。死没日をもって勲二等旭日重光章追贈(勲四等からの昇叙)、正五位から正三位に叙される[4]。
竹下登の秘書として有名になった青木伊平は元秘書。自身の甥は外交官でエクアドル駐箚日本国特命全権大使を務めている小瀧徹[5]。雲南市の三刀屋総合センターに銅像が建立されている[5]。
その他
[編集]栄典
[編集]脚注
[編集]- ^ 「旧制高等学校物語 第13」財界評論新社 1967年
- ^ 帝国秘密探偵社 1943, 海外11頁.
- ^ 防衛産業協会編『自衛隊年鑑 1959年』157頁、防衛産業協会、1959年
- ^ 『官報』第9429号696頁 昭和33年5月31日号
- ^ a b 図書ボランティアさんのご協力により「小瀧文庫」コーナーの新設 三刀屋地区まちづくり協議会のブログ 2013年6月5日付
- ^ 『新日本人物大観』(島根県版) コ・ク…506頁
- ^ 三刀屋町合併50周年記念式典 名誉町民に故永井博士ら 山陰中央新報 2004年8月22日付(Internet Archive)
参考文献
[編集]- 帝国秘密探偵社 編『大衆人事録 第14版 外地・満支・海外篇』帝国秘密探偵社、1943年 。
- 『新日本人物大観』(島根県版) 人事調査通信社 1957年 コ・ク…506頁
公職 | ||
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先代 船田中 (石橋湛山事務取扱) (岸信介事務代理) |
防衛庁長官 第6-7代:1957年 |
次代 津島壽一 |
議会 | ||
先代 梶原茂嘉 |
参議院外務委員長 1956年 - 1957年 |
次代 笹森順造 |
官職 | ||
先代 新設 |
終戦連絡大阪事務局長 1945年 - 1947年 |
次代 福島慎太郎 |