コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

田村秀昭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
田村秀昭
たむら ひであき
生年月日 1932年9月21日
出生地 東京都
没年月日 (2008-01-04) 2008年1月4日(75歳没)
出身校 防衛大学校
京都大学大学院
所属政党自由民主党→)
新生党→)
新進党→)
自由党→)
民主党→)
国民新党
称号 工学博士

選挙区 比例区
当選回数 3回
在任期間 1989年7月24日 - 2007年7月28日
テンプレートを表示

田村 秀昭(たむら ひであき、1932年9月21日 - 2008年1月4日)は、日本航空自衛官政治家工学博士(京都大学)。参議院議員(3期)、国民新党結党時の副代表。最終階級は空将

来歴・人物

[編集]

東京都生まれ。東京都立大学附属高等学校(同級生に佐藤信二)から防衛大学校へ進み、1957年に第一期生として卒業後、航空自衛隊に入隊。また、京都大学大学院工学研究科に進学して冶金工学を専攻し、博士課程を修了。1964年工学博士の学位を取得。

航空自衛隊では、F-4EJ技術連絡官(在米1年間)、技術研究本部技術開発官付、航空幕僚監部装備部長、保安管制気象団司令、航空自衛隊幹部学校長(空将1986年12月 - 1988年1月)を歴任。

退官後、1989年第15回参議院議員通常選挙(比例区)で初当選。自衛官(将官)を経て政界に出馬したことから政治家時代の愛称は「ジェネラル」(将軍)(ただし、本人の前では決して呼ばれることはなかった)。1992年東京佐川急便事件を契機に竹下派が分裂し、同派参院議員の大半が小渕恵三支持に回ったのに対し、田村は永野茂門北澤俊美らとともに羽田派に参加(田村は高校の同級生である佐藤から「俺ら中堅議員は小渕さんを支持しているのに、何でお前だけ羽田さんや小沢さんらと行動を共にするんだ」と言われたという)。1993年自民党を離党し新生党の結党に参加し、細川内閣では沖縄開発政務次官を務めた。

翌年(1994年)の羽田内閣では参議院外務委員長。同年末、新進党結成に参画する。新進党より1995年第17回参議院議員通常選挙(比例区)に立候補し再選。1997年の新進党分裂後は、小沢一郎に従い自由党の結党に参画(2001年第19回参議院議員通常選挙(比例区)では自由党から立候補し3選)。

2003年自由党解党に伴い、民主党に合流(参議院外交防衛委員・参議院国際問題に関する調査会委員)。

2005年8月17日、党の安全保障政策への不満から民主党を離党し国民新党の結党に参画した(副代表)。民主党は新党参画行為を反党行為として除籍処分(除名)を下した。

2007年7月の第21回参議院議員通常選挙には立候補せず、政界を引退。同年秋に山田洋行事件が発覚した際、山田洋行に役員待遇の顧問として採用するよう迫っていた事や同社の丸抱えで選挙資金の支援を受けていたことが判明し、秋の叙勲旭日重光章)受章候補を辞退した。

2008年1月4日、胃がんのため、自衛隊中央病院で死去。75歳没。

不祥事

[編集]

著書

[編集]
  • 『米国のパワーポリティクス―国際化時代を日本はいかに生き抜くか』日新報道、1988年6月、ISBN 4817401982
  • 『歴史を忘れた大人と国をなくした若者たち』楽書舘(楽書ブックス)、2002年2月、ISBN 4806115886

脚注

[編集]
  1. ^ 党所属国会議員の国民年金保険料の納付状況について 民主党メールマガジン 2004年5月13日 2014年4月26日閲覧

関連項目

[編集]
議会
先代
井上章平
日本の旗 参議院外務委員長
1994年 - 1995年
次代
木庭健太郎