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愛知和男

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
愛知 和男
あいち かずお
防衛庁長官就任に際して
生年月日 (1937-07-20) 1937年7月20日
出生地 日本の旗 東京府(現東京都
没年月日 (2024-05-03) 2024年5月3日(86歳没)
死没地 日本の旗 東京都
出身校 東京大学法学部卒業
前職 日本鋼管(現、JFEスチール)従業員
所属政党自由民主党田中派竹下派羽田派)→)
新生党→)
新進党→)
自由民主党(二階派
称号 従三位
旭日大綬章(2010年)
法学士(東京大学、1961年
子女 次男・愛知治郎(元参議院議員
親族 義父・愛知揆一大蔵大臣
公式サイト 愛知和男 公式ウェブサイト

日本の旗 第54代 防衛庁長官
内閣 細川内閣
在任期間 1993年12月2日 - 1994年4月28日

日本の旗 第25代 環境庁長官
内閣 第2次海部改造内閣
在任期間 1990年12月29日 - 1991年11月5日

選挙区旧宮城1区→)
宮城1区→)
比例東京ブロック
当選回数 9回
在任期間 1976年12月10日 - 2000年6月2日
2005年9月12日 - 2009年7月21日
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愛知 和男(あいち かずお、1937年昭和12年〉7月20日 - 2024年令和6年〉5月3日)は、日本政治家。旧姓は中田。位階は従三位、勲章は旭日大綬章

衆議院議員(9期)、防衛庁長官第54代)、環境庁長官第25代)、新進党政策審議会長(第2代)等を歴任した。

富山県知事を務めた中田幸吉はおじ。義父は衆議院議員を務め大蔵大臣外務大臣内閣官房長官などを歴任した愛知揆一。元参議院議員愛知治郎は次男。

来歴

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東京府(現東京都)出身。東京都立日比谷高等学校卒業を経て、1961年東京大学法学部を卒業し、日本鋼管(現JFEスチールJFEエンジニアリング)に入社。1968年から1972年までニューヨーク事務所に駐在[1]

1964年愛知揆一の養女と結婚し愛知家に婿入り、以後愛知姓を名乗る。ニューヨーク駐在中の1969年に次男・治郎が誕生した。1972年12月、義父・愛知揆一が第2次田中角榮内閣大蔵大臣に任命され、日本鋼管に在籍したまま大蔵大臣秘書官に就任[2]

1973年、翌年の仙台市長選挙への立候補を表明したが、この選挙における愛知は当初泡沫候補扱いであった[2]。同年11月、義父の愛知揆一が蔵相在任のまま死去したことで選挙戦の様相は一変したが、現職の島野武仙台市長が僅差で逃げ切り、愛知は惜敗した[2]

1976年12月、第34回衆議院議員総選挙に義父の地盤を引き継いで旧宮城1区(定数5)から立候補し、同区トップで初当選した(当選同期に鳩山邦夫中村喜四郎中島衛西田司池田行彦堀内光雄相澤英之津島雄二鹿野道彦塚原俊平中西啓介与謝野馨渡辺秀央中川秀直甘利正らがいる)。以後、1983年第38回衆議院議員総選挙まで、4度連続でトップ当選する。当選後は田中派に入会し、後に竹下派の結成に参加。1980年鈴木善幸内閣外務政務次官1982年第1次中曽根内閣労働政務次官に就任。1989年宮城県知事選挙への立候補を模索するが、前年に発覚したリクルート事件に関連し、愛知も同社から政治献金を受け取っていたため自民党内の説得により、出馬を断念する。

衆議院議院運営委員会・社会労働委員会・文教委員会各理事、自民党地方行政部会長、衆議院文教委員長などを経て[3]1990年第2次海部内閣環境庁長官に任命され、初入閣した。1992年の竹下派分裂に際しては羽田孜小沢一郎らと共に改革フォーラム21に参加し、羽田派の政策責任者を務める。1993年、自民党を離党し、新生党結党に参加した。1993年12月、中西啓介防衛庁長官の辞任に伴い、細川内閣で後任の防衛庁長官に任命される。1994年、新生党解党に伴い新進党結党に参加した。1995年、新進党政策審議会長に起用される。小選挙区比例代表並立制導入に伴い、1996年第41回衆議院議員総選挙では宮城1区から立候補。旧民主党前職の岡崎トミ子らを破り、8選。

1996年頃から新進党党首の小沢一郎に対する批判を強め、1997年7月14日に新進党を離党。4年ぶりに自民党に復党する。愛知の復党により自民党は単独過半数を回復、復党した愛知には花束が贈呈された。しかし、2000年第42回衆議院議員総選挙では宮城1区で民主党新人の今野東に敗れ、比例復活も叶わず落選(1区現象)。2002年、病気を理由に政界からの引退を表明した。引退後は関西大学東京農業大学で客員教授を務める。

2005年二階俊博の誘いを受けて第44回衆議院議員総選挙に立候補。比例東京ブロック単独で下位登載(26位)であったものの自民党の圧勝により愛知も当選し、5年ぶりに国政に復帰した。当選後は二階派に入会し、2007年12月には日朝国交正常化を目指す議員連盟「自民党朝鮮半島問題小委員会」の立ち上げに参加し、同議連の顧問に就任した。2009年第45回衆議院議員総選挙にも再び比例東京ブロック単独で立候補したが落選し、再び政界引退を表明した。2010年4月29日、春の叙勲において旭日大綬章を受章した[4]

2024年5月3日の朝、東京都内の病院で死去した[5]。86歳没。次男で元参議院議員治郎によると、4月に新型コロナウイルスに感染し、東京都内の病院に入院していたが、5月3日に容体が急変し亡くなったという[6]。死没日をもって従三位に叙された[7][8]

人物

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家族・親族

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所属団体・議員連盟

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著書

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  • 国政の柱・外交 : きびしい国際環境の中で生きのびるために』日本経済研究会、1982年3月11日。
  • 『各界首脳と語る』不昧堂出版、1986年11月1日。
  • I think…』キョウエイアドインターナショナル出版局、1988年4月21日。
  • 『地球環境の視点に立った世直し論―日本を変える、世界を変える』 プレジデント社、1992年5月
  • 共生世界論 : どうする、これからの世界と日本』プレジデント社、1994年10月27日。
  • 『ここを変革すれば日本は必ずよくなる』 かんき出版、1995年9月
  • 『次世代の日本へ-野に在りて国を思う-』 恒文社21、2002年10月
  • 盛山正仁と編著『エコツーリズム推進法の解説』 ぎょうせい、2008年10月
評伝
  • 森田実『愛知和男 元防衛庁長官・元環境庁長官』 論創社、2022年8月
副題:しがらみ多き保守政界で自己の信念を貫いた自由人政治家

CD

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脚注

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  1. ^ https://web.archive.org/web/20190815202128/http://kazuo-aichi.cocolog-nifty.com/
  2. ^ a b c 年表(政治家時代の活動内容) 愛知和男公式ウェブサイト、2010年5月10日閲覧[リンク切れ]
  3. ^ 「月刊官界」1988年11月号 94頁
  4. ^ 春の叙勲、4021人”. 日本経済新聞 (2010年4月29日). 2023年4月7日閲覧。
  5. ^ 元衆院議員 愛知和男さん死去 86歳 後日仙台でお別れ会 | khb東日本放送”. khb (2024年5月3日). 2024年5月3日閲覧。
  6. ^ 愛知和男さん死去 衆院旧宮城1区選出 環境庁長官や防衛庁長官など務める |仙台放送” (2024年5月4日). 2024年5月4日閲覧。
  7. ^ 『官報』第1232号8頁 令和6年5月30日
  8. ^ “故愛知和男氏に従三位 政府”. 時事通信. (2024年5月21日). https://www.jiji.com/sp/article?k=2024052100380& 2024年5月22日閲覧。 
  9. ^ 私は男声合唱団の敏腕マネージャー 素顔の愛知和男、愛知和男公式ウェブサイト、2010年5月10日閲覧
  10. ^ 佐々木更三君の故議員愛知揆一君に対する追悼演説 (第72回国会 本会議 第6号) 昭和48年12月17日 衆議院 会議録情報

関連項目

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外部リンク

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議会
先代
青木正久
日本の旗 衆議院文教委員長
1986年 - 1987年
次代
中村靖
先代
箕輪登
日本の旗 衆議院安全保障特別委員長 次代
瓦力
公職
先代
中西啓介
日本の旗 防衛庁長官
第54代:1993年 - 1994年
次代
神田厚
先代
北川石松
日本の旗 環境庁長官
第25代:1990年 - 1991年
次代
中村正三郎
党職
先代
中野寛成
新進党政策審議会長
第2代 : 1995年 - 1996年
次代
野田毅
先代
戸塚進也
自由民主党青年局長
第14代 : 1979年 - 1980年
次代
鹿野道彦