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竹谷源太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
竹谷 源太郎
たけや げんたろう
生年月日 1901年2月14日
出生地 日本の旗 日本 宮城県伊具郡角田町
没年月日 (1978-09-12) 1978年9月12日(77歳没)
出身校 東京帝国大学法学部法律学科卒業
所属政党 (宮城地方党→)
(日本社会党→)
右派社会党→)
(日本社会党→)
民主社会党

選挙区 (宮城県全県区→)
宮城県第1区
当選回数 7回
在任期間 1946年 - 1949年
1952年 - 1960年
1963年 - 1967年
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竹谷 源太郎(たけや げんたろう、1901年明治34年)2月14日[1] - 1978年昭和53年)9月12日[2])は、日本の政治家内務官僚弁護士衆議院議員

経歴

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宮城県伊具郡角田町(現角田市)で呉服商・竹谷源平、いち夫妻の長男として生まれる[3]1918年宮城県立角田中学校を卒業し、東京高等商業学校に入学したが、体操教官(陸軍中佐)の態度に反発し退学[3]。同年、第一高等学校に編入し、1924年東京帝国大学法学部法律学科(仏法)を卒業[1][2][3]。卒業後はアメリカ合衆国デパートメント・ストアの研究を希望していたが、友人が相談もなく手続きをした高等試験行政科試験を受けて1924年11月に合格[3][4]。同年、内務省に入省し静岡県属となる[4]

その後、北海道庁事務官に転じ、タコ部屋労働の廃止に取組み、貧窮者対象の社会事業協会附属病院の設立などに尽力[3]。その後、富山県書記官警察部長、山口県書記官・警察部長、福岡県書記官・経済部長、兵庫県書記官・警察部長などを歴任し[1][2][3]1942年7月7日、陸軍司政長官に発令され[5]ジャワ島へ赴任が予定されていたが、健康診断の結果、内地勤務となり陸軍省軍務局に配属された[3]。その後、千葉県内政部長、新潟県内政部長を務め、1945年に退官した[2][4]

その後、帰郷して同志と宮城地方党を組織し、1946年4月、第22回衆議院議員総選挙で宮城全県区から出馬し当選[2][3]社会主義の実現のため日本社会党に入党を希望したが、当初、旧内務官僚との理由で拒否されたが、片山哲西尾末広の紹介により同年7月に入党が認められた[3]。その後、第23回第25回から第28回第30回総選挙で当選し、衆議院議員を通算七期務めた[2]。この間、国土開発縦貫自動車道建設法の制定の推進、所得三倍論の提唱などを行い、国土総合開発審議会委員、裁判官訴追委員、衆議院運輸委員長、日本社会党中央執行委員、同統制委員、同国土開発特別委員長、民主社会党中央執行委員、同財務委員長、民社党顧問などを務めた[1][2][3]

1960年、社会党の経済面の自由だけでなく、完全な自由平等の獲得のため民主社会党の結党に参加した[3]

人物

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婦人世界』に掲載されたミツバチの記事を読んで興味を持ち、ミツバチを取り寄せて小学校5年生から中学校を卒業するまで寝起きを共にして観察した結果、ミツバチの世界が思想、行動など全てにおいて完全なる自由が存在すると認識し、人間の社会もこのようなものでありたいと願望し、その後の人生を歩んだ[3]

著作

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  • 『考査試験提要』松華堂書店、1926年。
  • 『監獄部屋廃止論』北海道庁学務部社会課、1931年。
  • 『公営選挙法概説』日本産業新聞社、1948年。
  • 『市町村議会議員必携』増訂、酣灯社、1951年。
  • 『新党員獲得に関する20章』日本社会新聞出版部、1959年。
  • 『所得3倍論 : 昭和45年の日本経済』日本経済構造研究会、1960年。

脚注

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  1. ^ a b c d 『新訂 政治家人名事典』366頁。
  2. ^ a b c d e f g 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』390頁。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l 『現代の政治家』220-224頁。
  4. ^ a b c 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』247頁。
  5. ^ 『官報』第4647号、昭和17年7月8日。

参考文献

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  • 細川隆元『現代の政治家 : 政界のホープ五十人』雪華社、1960年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
  • 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。ISBN 9784816918056
議会
先代
関内正一
日本の旗 衆議院運輸委員長
1954年 - 1955年
次代
原健三郎