コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

原栄作

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

原 栄作(榮作、はら えいさく、1879年明治12年)11月2日[1] - 1958年昭和33年)4月4日[2][3])は、明治後期から昭和期の医師政治家衆議院議員

経歴

[編集]

静岡県[2]庵原郡町屋原村(由比町を経て現静岡市清水区)で、豪農[4]・原茂左衛門の二男として生まれる[5]。静岡中学校(現静岡県立静岡高等学校)を経て[4][5]、1903年(明治36年[注釈 1]千葉医学専門学校(現千葉大学)を卒業[4][5]。その後、内務省永楽病院助手となり[5]、臨床学を研鑽した[4]

1905年(明治38年)に帰郷して由比町北田で医院を開業した[3][5]。由比町消防組頭に就任し、組員の意識の向上、防災思想の町民への啓発に尽力した[4]。その他、由比町青年団長、庵原郡学校衛生会長、由比町森林組合長、同漁業協同組合長、同農業会長、静岡県森林組合連合会長、同医師会長、同学校衛生会副会長、同水産業会顧問、静岡県保健婦学校長などを務めた[2][4][5]。また日本医療団の結成の際には副団長に就任した[5]

政界では、1933年(昭和8年)4月に由比町会議員に当選[4]。1936年(昭和11年)から1942年(昭和22年)まで静岡県会議員に在任し同参事会員も務めた[2][3][5]。1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙静岡県第1区日本自由党公認で出馬して当選[6]したが、公職追放となり[7]衆議院議員を辞職した[2][5]。同年8月、県医師会会長も公職追放され辞職した[5]

公職追放解除後には、静岡県教育委員を務めた[5]

親族

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』521頁では明治37年。

出典

[編集]
  1. ^ 『第三回国会 衆議院議員名簿』35頁。
  2. ^ a b c d e 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』521頁。
  3. ^ a b c 『由比町の歴史 上巻』275頁。
  4. ^ a b c d e f g h 『我が郷土の誇り』52-58頁。
  5. ^ a b c d e f g h i j k 『静岡県歴史人物事典』383-384頁。
  6. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第23回』293頁。
  7. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、一般該当者名簿88頁。公職追放の該当事項は「翼賛政治体制協議会構成員」。

参考文献

[編集]
  • 望月肇『我が郷土の誇り:人傑の奮闘録』望月肇出版部、1933年。
  • 『第三回国会 衆議院議員名簿』衆議院公報附録、1948年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第23回』衆議院事務局、1948年。
  • 手島日真『由比町の歴史 上巻』由比文教社、1972年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 静岡新聞社出版局編『静岡県歴史人物事典』静岡新聞社、1991年。