伊東正義
伊東 正義 いとう まさよし | |
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生年月日 | 1913年12月15日 |
出生地 | 日本 福島県会津若松市 |
没年月日 | 1994年5月20日(80歳没) |
死没地 | 日本 東京都 |
出身校 | 東京帝国大学法学部卒業 |
前職 | 国家公務員(農林省) |
所属政党 | 自由民主党 |
称号 | 法学士 |
配偶者 | 伊東輝子 |
内閣 | 第2次大平内閣 |
在任期間 | 1980年6月12日 - 1980年7月17日 |
天皇 | 昭和天皇 |
第104代 外務大臣 | |
内閣 | 鈴木善幸内閣 |
在任期間 | 1980年7月17日 - 1981年5月18日 |
内閣 | 第2次大平内閣 |
在任期間 | 1980年6月11日 - 1980年7月17日 |
第43代 内閣官房長官 | |
内閣 | 第2次大平内閣 |
在任期間 | 1979年11月9日 - 1980年7月17日 |
選挙区 | 旧福島2区 |
当選回数 | 9回 |
在任期間 |
1963年11月22日 - 1966年12月27日 1969年12月29日 - 1993年6月18日 |
その他の職歴 | |
第30代 自由民主党総務会長 総裁:竹下登 (1987年 - 1989年) | |
第32代 自由民主党政務調査会長 総裁:中曽根康弘 (1986年 - 1987年) |
伊東 正義(いとう まさよし、1913年〈大正2年〉12月15日 - 1994年〈平成6年〉5月20日)は、日本の政治家。
衆議院議員(9期)、外務大臣(第109代)[1]、内閣総理大臣臨時代理、副総理、内閣官房長官(第43代)、自由民主党政務調査会長(第32代)、自由民主党総務会長(第30代)を歴任した。
来歴
[編集]福島県会津若松市に生まれ、祖父の伊東健輔は会津藩士であった。父伊東秀三郎は旧制会津中学校(現福島県立会津高等学校)の一回生で、同校教諭である[2]。旧制会津中学、旧制浦和高等学校(現埼玉大学)を経て、東京帝国大学法学部を卒業。農林省に入省する。農務局嘱託[3]。その後、間もなく興亜院に出向する。伊東の興亜院時代の同僚に盟友の大平正芳や、後に通商産業大臣などを歴任する佐々木義武らがいた[4]。
中国大陸から戦時中に帰国するが、空襲により焼け出され大平の自宅に仮寓する日々が続いた。農林省では河野一郎農林大臣を相手に丁々発止の議論を展開し、河野から「政治家向き」と評価されている[注釈 1]。農地局長や水産庁長官を経て、1962年に農林事務次官を務めた後、退官。
政界入り
1963年、伊東は第30回衆議院議員総選挙に旧福島県第2区から自由民主党公認で立候補し、初当選を果たした[5]。当選後は河野率いる河野派ではなく、無二の親友である大平が所属していた池田派(宏池会)に加わり、領袖の池田勇人から「君は池田派から出馬するというが、本当のところは大平派だな」と評された。当選同期に小渕恵三・橋本龍太郎・小宮山重四郎・田中六助・渡辺美智雄・佐藤孝行・藤尾正行・中川一郎・三原朝雄・鯨岡兵輔・西岡武夫・奥野誠亮などがいる。
大平内閣時代
大平が福田赳夫の後を受けて自由民主党総裁に就任したことを受け、伊東も党財務委員長に起用され第2次大平内閣では初入閣ながら首相の女房役たる内閣官房長官に就任し、大平首相を補佐した[6]。
1980年、福田派や三木派の本会議欠席により大平内閣不信任決議案が可決され、ハプニング解散により衆参同日選挙が施行された。ところが、大平首相が5月30日に同日公示された第12回参議院議員通常選挙の遊説の後、不整脈により虎の門病院に入院した。大平首相の入院中は伊東が留守を預かり、6月12日[注釈 2]に大平首相が急逝した後は事前指定に基づき内閣総理大臣臨時代理に就任し、即刻形式上内閣総辞職の手続きをとり、選挙後まで職務執行内閣を率いた(党務は西村英一副総裁が代行)。
ポスト大平をめぐっては伊東の名前も総裁候補に挙がり、加藤紘一や堀内光雄らの若手が総理後継の流れを作ろうとしたが[7]、伊東が消極的であった上に、大平と同盟関係にあった田中角栄が大平派のナンバーツーである鈴木善幸を推した[注釈 3]。鈴木は田中派に近かったものの、従来の反主流派要人も了承し、鈴木が後継の総理大臣となることが固まった。
鈴木内閣時代と外相辞任
鈴木善幸内閣では大平の戦時中からの盟友で、大平内閣の幕引き官房長官だった伊東を、大平後継の正統性を示す証として、固辞するのを押し切って外務大臣に任命した[1]。1981年5月の日米首脳会談における共同声明の解釈を巡って、日米同盟は当然に軍事同盟の性格もあるとする伊東と、日米同盟は軍事同盟ではないとする鈴木首相のそれぞれの国会答弁が齟齬をきたす。また、鈴木首相と声明文を作成した外務省側が対立し、中川一郎科学技術庁長官、渡辺美智雄蔵相、鯨岡兵輔環境庁長官や小川平二宏池会座長から外務官僚が攻撃される。共同声明の文面は事前に官邸側もチェックしているはずなのにいまさら外務省を攻撃することは筋が通らないと思いつつも、伊東は官僚をかばって自分の責任であると閣僚懇談の席で陳謝するが、外交における先方への影響を勘案しこのやりとりを内密にするという了解があったにもかかわらずマスコミに漏洩したため態度を硬化させ、表向きは騒動の責任を取るという形で辞表を提出する。なお、「オレは糖尿病がひどいし、家内は病弱だ。無理だと断ったのに強引に外相にされた。とても目前に迫るフィレンツェのサミットに慣例通り夫婦でいける状態じゃないから、口実をみつけて辞めたまでさ」と本人が述べたと、伊東の死後に俵孝太郎は語っている[1]。伊東の後任には、園田直厚生大臣が横滑りし、鈴木の路線に沿う外交政策を打ち出したが、のちの中曽根内閣では再び日米軍事同盟路線が確認された。
中曽根内閣時代
1986年、3選を果たした中曽根康弘総裁の下で伊東は自民党政調会長に就任し、政界の表舞台に復帰した。続く竹下登総裁の下で自民党総務会長に就任し、引き続き党三役の一角を占めた。
竹下内閣時代
しかし1989年、リクルート事件により竹下首相は退陣を余儀なくされ、ポスト竹下に党三役の一人であり、後継の首相の座に金権腐敗に縁のない伊東の名前も挙がったが、頑なに拒否した。その後、後藤田正晴に乞われ自民党政治改革本部長に就任した。自民党政治改革本部長に就任したが、自民党内の状況変化(東京佐川急便事件の影響を受けた竹下派分裂)や体調の悪化により1993年の第40回衆議院議員総選挙に立候補せず、政界から引退した。
政界引退後
1994年5月20日、伊東は自民党の政権復帰を見ることなく、肺炎のため東京都内の自宅で死去。80歳没。中野・宝仙寺で行われた葬儀では盟友の後藤田正晴が弔辞を読み、「あなたは政治家の中では珍しい愚直なまでの潔癖漢でもありました。こうした姿勢を貫きとおしたことに、私はすがすがしさ、美しさすら覚えます。党内にはそういうあなたを煙たがる空気もありましたが、この潔癖さこそが今の政治に最も大切なことだと思います。」と述べた[7]。墓所は鎌倉霊園。
略歴
[編集]- 1930年(昭和5年)3月 会津中学四年修了、浦和高等学校文科乙類入学[8]。
- 1933年(昭和8年) 浦和高等学校卒業。
- 1936年(昭和11年)3月 東京帝国大学法学部卒業、農林省入省。
- 1939年(昭和14年) 興亜院出向。
- 1946年 農林省農政局肥料課長
- 1947年 商工省化学肥料第二課長
- 1948年 農林大臣官房会計課長
- 1951年 農林大臣官房総務課長
- 1952年 水産庁漁政部長
- 1953年 食糧庁業務第一部長
- 1955年 東京営林局長
- 1955年 名古屋営林局長
- 1956年 経済企画庁審議官
- 1957年 経済企画庁総合開発局長
- 1958年 農地局長
- 1961年 水産庁長官
- 1962年 農林事務次官
- 1963年9月20日 退官
- 1963年11月 第30回衆議院議員総選挙に福島2区から、自由民主党公認で出馬し初当選。以後当選9回。
- 1979年11月 第2次大平内閣で内閣官房長官として初入閣。
- 1980年6月 副総理、内閣総理大臣臨時代理。
- 1980年7月 鈴木善幸内閣で外務大臣として入閣。
- 1981年5月 外務大臣辞任。
- 1986年7月 自由民主党政調会長。
- 1987年10月 自由民主党総務会長。
- 1993年7月 政界引退。
エピソード・持病
[編集]- 糖尿病の持病があり、妻も病弱である。無理だと断ったのに強引に外相にされた際には、「とても目前に迫るフィレンツェのサミットに慣例通り夫婦でいける状態じゃないから」と別の口実をみつけて辞めている。会津若松で自民党の支部大会の講師控室で座っていた伊東が、突然低血糖の発作で半昏睡状態になった際には、秘書が手慣れた姿で角砂糖(糖分)を補給し、すぐに回復している[1]。
- 1980年、大平正芳首相の死去に際し内閣総理大臣臨時代理を務める。臨時代理に事前指定されていたのは伊東だけであったので伊東が就任するほかなかったにもかかわらず、親友の死に際して臨時代理に就任することを渋り、同じ宏池会の田中六助に説得されてようやく就任した。内閣総理大臣代理に就任後も、周囲からいくら勧められても首相執務室には入らずに内閣官房長官執務室で仕事を続け、閣議でも決して首相の席には座らなかった。大平が就いていた宏池会会長についてもただちに鈴木善幸が継承することには異を唱え、当面は鈴木が会長ではなく代表の肩書で派を率いることで収まった。
- 大平の死の遠因となったハプニング解散を引き起こすきっかけを作った福田赳夫・三木武夫を強く嫌っていた。竹下登の後継選びに福田の名前が挙がった際にも強く反対している。
- 1989年、辞任した竹下登の後継として自由民主党総裁に推されるも、「本の表紙を変えても、中身を変えなければ駄目だ」と就任を頑なに固辞した。「ポスト竹下」を固辞したことで「政治家にとって首相の地位はその経綸を実行しうる最大のポストなのに、首相になりたくないという政治家とは一体なんなのか」と批判されたこともあるが、首相を固辞した理由には持病の糖尿病の悪化もあったという。また、竹下らが本当に自分に「経綸を実行」させてくれるかどうか信用できないという面もあったとされる。
- 自民党内の実力者でありながら金権政治には一切無縁のクリーンさで知られ、そのために「ポスト竹下」の候補の1人に数えられた。伊東の自宅はバブルの頃でさえ雨漏りするほど生活は質素であった(この件に関して首相を固辞した当時「AERA」で特集が組まれた)。
- 死去の翌年(1995年)に「伊東正義先生を偲ぶ」(編集・発行:伊東正義先生回想録刊行会)という本が発行された。
- 元秘書に元衆議院議員の斎藤文昭や、元会津若松市長の山内日出夫などがいる。
- 日本エジプト友好議員連盟初代会長、日本パレスチナ議員連盟会長を務める[9]などアラブ世界との関わりも深かった。
- 渡部恒三(同じ会津出身)によると東京佐川急便事件で36人ぐらい政治家の名前が出たが自民党の幹部でお金を貰わなかったのは伊東と渡部だけで渡部の場合は初めから持ってこなかったという[10]。
- 趣味は観劇。森光子の熱烈なファンで好きな理由は「大女優なのに庶民的だから好きなんだ」と答えている[7]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 劇画『小説吉田学校』の中でもこのエピソードが描かれている
- ^ 前日の6月11日付けで「内閣法第九条に規定する国務大臣に指定」する旨の辞令が発出され「内閣総理大臣臨時代理の就任予定者」となったが、これには期間・条件等(「大平正芳の病気療養中」など)の制限に関する付記がないため、形式的にはいわゆる「副総理」である。翌12日に大平首相が急死したことにより新首相の親任式までの間「内閣総理大臣臨時代理」の職名を使用することとなった。
- ^ 岩見隆夫著『日本の歴代総理大臣がわかる本』にも記載されている
出典
[編集]- ^ a b c d “一戦後人の発想|(株)時評社”. archive.md (2021年12月14日). 2022年2月22日閲覧。
- ^ 塩谷七重郎『松江春次伝』(歴史春秋社、2005年)54頁
- ^ 『日本官僚制総合事典』東京大学出版会、2001年11月発行、314頁
- ^ 『大平正芳』 38頁。
- ^ 『大平正芳』 115頁。
- ^ 『大平正芳』 256頁。
- ^ a b c 総理の座を固辞した伊東正義、会津人の気骨
- ^ “伊東正義の略歴/偉人伝/会津への夢街道”. www.aizue.net. 2021年2月18日閲覧。
- ^ “パレスチナ問題に関する質問主意書”. 衆議院. 2014年4月21日閲覧。
- ^ 文藝春秋2018年二月号、平成4年 竹下派分裂で小沢総理は幻になった、渡部恒三 元衆議院議員、247頁
評伝文献
[編集]参考文献
[編集]- 福永文夫『大平正芳―「戦後保守」とは何か』(初版)中央公論新社〈中公新書〉(原著2008年12月)。ISBN 9784121019769。
党職 | ||
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先代 安倍晋太郎 |
自由民主党総務会長 第30代:1987年 - 1989年 |
次代 水野清 |
先代 藤尾正行 |
自由民主党政務調査会長 第32代:1986年 - 1987年 |
次代 渡辺美智雄 |
公職 | ||
先代 岸信介 1957年・石橋内閣 |
内閣総理大臣臨時代理 1980年 第2次大平内閣 |
次代 青木幹雄 2000年・小渕内閣 |
先代 福田赳夫 |
国務大臣(副総理) 1980年 |
次代 金丸信 |
先代 大来佐武郎 |
外務大臣 第104代:1980年 - 1981年 |
次代 園田直 |
先代 田中六助 |
内閣官房長官 第43代:1979年 - 1980年 |
次代 宮沢喜一 |