安広伴一郎
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安広 伴一郎(やすひろ ばんいちろう、旧字体: 安廣 伴󠄁一郞、安政6年10月13日(1859年11月7日) - 昭和26年(1951年)5月27日)は、明治時代から昭和時代にかけて活躍した官僚・政治家・実業家。内閣書記官長、貴族院議員、南満洲鉄道社長などを歴任した。号は竜峰。
経歴
[編集]村上仏山について儒学を修め、明治8年(1875年)上京して慶應義塾に入り、明治11年(1878年)に義塾から留学して香港中央書院に入学し、明治13年(1880年)5月に卒業。
帰国後、山縣有朋の知遇を得て、中山寛六郎の援助によりケンブリッジ大学に遊学して明治20年(1887年)法学士の学位を得た。明治21年(1888年)、第三高等中学校教員。明治23年(1890年)内閣書記官。内務省、文部省、逓信省を経て明治31年(1898年)11月、内閣書記官長(1900年10月まで在任)。明治33年(1900年)9月26日[1]、貴族院勅選議員。1915年(大正4年)6月22日、錦鶏間祗候となる[2]。農商務総務長官、製鉄所長官、法制局長官、内閣恩給局長を経て、大正5年(1916年)3月4日、枢密顧問官となり[3]、同月13日に貴族院議員を辞任した[4]。大正13年(1924年)6月、南満洲鉄道株式会社(満鉄)社長に就任し、昭和2年(1927年)7月まで務めた。
山縣有朋の側近中の側近の官僚として活躍し、白根専一・小松原英太郎・大浦兼武・淸浦奎吾・松平正直・大森鍾一・平田東助らと並んで「山県派四天王」の一人といわれた。
親族
[編集]栄典
[編集]- 位階
- 1891年(明治24年)11月28日 - 正七位[5]
- 1897年(明治30年)7月10日 - 正五位[6]
- 1900年(明治33年)11月10日 - 従四位[7]
- 1911年(明治44年)4月21日 - 正四位[8]
- 勲章等
- 1900年(明治33年)12月20日 - 勲四等瑞宝章[9]
- 1903年(明治36年)12月14日 - 勲二等旭日重光章[10]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲一等瑞宝章[11]
- 1912年(大正元年)8月1日 - 韓国併合記念章[12]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章(大正)[13]
- 1931年(昭和6年)3月20日 - 帝都復興記念章[14]
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[15]
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『人事興信録 初版』751頁では安広一郎長男。
出典
[編集]- ^ 『官報』第5174号、明治33年9月28日。
- ^ 『官報』第867号、大正4年6月23日。
- ^ 『官報』第1076号、大正5年3月6日。
- ^ 『官報』第1083号、大正5年3月14日。
- ^ 『官報』第2529号「叙任及辞令」1891年12月3日。
- ^ 『官報』第4207号「叙任及辞令」1897年7月12日。
- ^ 『官報』第5210号「叙任及辞令」1900年11月12日。
- ^ 『官報』第8347号「叙任及辞令」1911年4月22日。
- ^ 『官報』第5243号「叙任及辞令」1900年12月21日。
- ^ 『官報』第6138号「叙任及辞令」1903年12月16日。
- ^ 『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。
- ^ 『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。
- ^ 『官報』第1310号・付録、「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
参考文献
[編集]- 人事興信所 編『人事興信録 初版』人事興信所、1903年 。
- 三田商業研究会編 編『慶應義塾出身名流列伝』実業之世界社、1909年(明治42年)6月、573-574頁 。(近代デジタルライブラリー)
- 『臺灣總督田健治郎日記』 田健治郎・吳文星 中央硏究院臺灣史硏究所籌備處
公職 | ||
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先代 岡野敬次郎 |
文官高等試験委員長 1908年 - 1911年 |
次代 岡野敬次郎 |
先代 藤田四郎 |
農商務総務長官 林野整理審査会会長 1901年 - 1903年 |
次代 和田彦次郎 |
先代 和田維四郎 |
製鉄所長官 1902年 |
次代 中村雄次郎 |