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田中光顕

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
田中 光顕
たなか みつあき
生年月日 1843年11月16日
天保14年閏9月25日
出生地 日本の旗 日本 土佐国高岡郡佐川村
(現・高知県高岡郡佐川町
没年月日 (1939-03-28) 1939年3月28日(95歳没)
死没地 日本の旗 日本 静岡県庵原郡蒲原町
(現・静岡市清水区
前職 武士土佐藩士)
土佐藩家老深尾氏家臣
官僚
称号 陸軍少将
正二位
勲一等旭日桐花大綬章
伯爵
配偶者 田中伊輿子
田中孝子
親族 金沢正敏(祖父)
浜田金治(父)
那須信吾(叔父)
田中遜(養嗣子)
田中光素(孫)
田中光保(孫)
田中光季(孫)
田中光常(孫)
村田光義(孫)
村田尚義(孫)
村田明義(孫)

日本の旗 第3代 宮内大臣
在任期間 1898年2月9日 - 1909年6月16日

在任期間 1885年12月22日 - 1889年12月24日

在任期間 1887年5月14日 - 1888年12月3日

内閣 第1次伊藤内閣
在任期間 1885年12月22日 - 1888年4月30日

在任期間 1890年7月10日 - 1891年4月25日[1]
テンプレートを表示
若き日の田中光顕
1868年慶応4年)京都にて撮影)
田中光顕邸(小田原文学館
小田原市
護国寺(東京都文京区)内 田中光顕墓

田中 光顕(たなか みつあき、1843年11月16日天保14年閏9月25日〉 - 1939年昭和14年〉3月28日[2])は、日本政治家[3]栄典従一位勲一等伯爵。初名は浜田辰弥。通称を顕助、は青山。

生涯

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幕末

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天保14年(1843年)閏9月25日、土佐藩の家老深尾家々臣である浜田金治金沢正敏の娘である献の長男として、土佐国高岡郡佐川村(現・高知県高岡郡佐川町)に生まれた。

土佐藩士武市半平太尊王攘夷運動に傾倒してその道場に通い、土佐勤王党に参加した。叔父の那須信吾吉田東洋暗殺の実行犯だが、光顕も関与した疑いもある。しかし文久3年(1863年)、同党が八月十八日の政変を契機として弾圧されるや謹慎処分となり、翌元治元年(1864年)には同志を集めて脱藩。のち高杉晋作の弟子となって長州藩を頼る。第一次長州征伐後に大坂城占領を企図したが、新撰組に摘発されたぜんざい屋事件を起こして大和十津川へ逃れる。薩長同盟の成立に貢献して、薩摩藩黒田清隆が長州を訪ねた際に同行した。第二次長州征伐時では長州藩の軍艦丙寅丸に乗船して幕府軍と戦った。後に帰藩し中岡慎太郎陸援隊に幹部として参加。

慶応3年(1867年)、中岡が坂本龍馬と共に暗殺(近江屋事件)されると、その現場に駆けつけて重傷の中岡から経緯を聞く。中岡の死後は副隊長として同隊を率い、鳥羽・伏見の戦い時では高野山を占領して紀州藩を威嚇(高野山挙兵)、戊辰戦争で活躍した。

明治以降

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維新後は新政府に出仕。岩倉使節団では理事官として参加し欧州を巡察。西南戦争では征討軍会計部長となり、1879年明治12年)に陸軍省会計局長、のち陸軍少将。また元老院議官や初代内閣書記官長警視総監学習院院長などの要職を歴任した。1887年(明治20年)、子爵を授けられて華族に列する。1898年(明治31年)、宮内大臣。約11年間にわたり、同じ土佐出身の佐々木高行土方久元などと共に、天皇親政派の宮廷政治家として大きな勢力をもった。1907年(明治40年)9月23日、伯爵に陞爵。1909年(明治42年)、収賄疑惑の非難を浴びて辞職、政界を引退した。

政界引退後は、高杉晋作の漢詩集『東行遺稿』の出版、零落していた武市半平太の遺族の庇護など、日本各地で維新烈士の顕彰に尽力している。また志士たちの遺墨、遺品などを熱心に収集し、それらは彼が建設に携わった茨城県大洗町の常陽明治記念館(現在は幕末と明治の博物館)、旧多摩聖蹟記念館、高知県佐川の青山文庫にそれぞれ寄贈された。その他、1901年(明治34年)に日本漆工會の2代目会頭に就任、久能山東照宮の修理をはじめ漆器の改良などの文化事業を積極的に行っている。

晩年は静岡県富士市富士川「古渓荘」(現野間農園)、同県静岡市清水区蒲原に「宝珠荘」(後に青山荘と改称)、神奈川県小田原市に南欧風の別荘(現在の小田原文学館)等を建てて隠棲した。口述筆記による回顧談『維新風雲回顧録』(大日本雄弁会講談社、1928年)を出版。他に『維新夜話』、『憂国遺言』が遺されている。

1928年(昭和3年)には、昭和天皇の即位記念として、坂本龍馬の「エヘンの手紙」を含む維新志士の資料50数点を御物として寄贈している[4]。しかし昭和天皇に男子がなかなか出生しないことから、側室をもうけるべきだと主張。その選定を勝手に進めるなどして、天皇側近と対立した。また、昭和維新運動に理解を示し、昭和11年(1936年)の二・二六事件の際には、事件を起こした青年将校らの助命願いに浅野長勲と動いたが、叶わなかった。

1939年(昭和14年)3月28日静岡県蒲原町(現静岡市清水区蒲原)の別荘の青山荘にて風邪から肺炎を併発し95歳で没した[5][6]

家族

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栄典

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位階
勲章等
外国勲章佩用允許

著作

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単著

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  • 『維新風雲回顧録』大日本雄弁会講談社、1928年3月。 NCID BN14289721全国書誌番号:46077458 
  • 『維新夜話』改造社、1936年4月。 NCID BA49951962全国書誌番号:46044306 
  • 田中直樹 編『憂国遺言』鱒書房、1940年4月。 NCID BA36339184全国書誌番号:44012047 全国書誌番号:46075706 全国書誌番号:47038770 

共著

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監修

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関連施設

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脚注

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  1. ^ 『官報』第2347号、明治24年4月30日。
  2. ^ 『官報』第3669号「彙報 - 官吏薨去及卒去」1939年3月31日。
  3. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)「田中光顕」
  4. ^ 谷是、『高知県謎解き散歩』、株式会社新往来社、2012年5月11日発行、P82~83。
  5. ^ JAしみず
  6. ^ Company, The Asahi Shimbun. “【番外編】土佐出身者の心に生きる龍馬 - ことばマガジン:朝日新聞デジタル”. 朝日新聞デジタル. 2023年7月23日閲覧。
  7. ^ a b c d e 田中光顯とおかう『名流情話』泉斜汀、蜻蛉館、1917
  8. ^ 金杉英五郎久作関係人物誌
  9. ^ 『朝日新聞の記事にみる恋愛と結婚』朝日新聞社、1997, p202-205
  10. ^ 婦女新聞社『婦人界三十五年』(1935.05)大正4年(1915)2月渋沢社史データベース
  11. ^ 小林孝子懺悔秘話 : 附・女妖高橋お伝国立国会図書館リサーチ
  12. ^ 田中遜君『大日本人物名鑑. 〔巻4の1〕』ルーブル社出版部、1921
  13. ^ a b c d e f g h i j 田中光顕 - 国立公文書館デジタルアーカイブ
  14. ^ 『官報』第621号「叙任」、明治18年7月27日。
  15. ^ 『官報』第994号「叙任」、明治19年10月21日。
  16. ^ 『官報』第3301号「叙任及辞令」、明治27年7月2日。
  17. ^ 『官報』第4791号「叙任及辞令」、明治326月22日。
  18. ^ 『官報』第6901号「叙任及辞令」、明治39年7月2日。
  19. ^ 陸軍少将黒川通軌外六名勲二等ニ進叙」 アジア歴史資料センター Ref.A15110025500 
  20. ^ 『官報』第1156号「叙任及辞令」、明治20年5月10日。
  21. ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」、明治22年11月30日。
  22. ^ 『官報』第2853号「叙任及辞令」1893年1月4日。
  23. ^ 『官報』第5054号「叙任及辞令」、明治33年5月1日(NDLJP:2948348
  24. ^ 『官報』第7194号「叙任及辞令」1907年6月24日。
  25. ^ 『官報』第7578号・付録「辞令」、明治39年9月28日。
  26. ^ 『官報』第7273号「授爵・叙任及辞令」、明治40年9月25日。
  27. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」、大正4年12月13日。
  28. ^ 『官報』第1510号「宮廷録事-恩賜」1932年1月15日。
  29. ^ a b 『官報』第4810号「敍任及辞令」、明治32年7月14日。
  30. ^ 『官報』第5365号「叙任及辞令」、明治34年5月24日。
  31. ^ 『官報』第6433号「叙任及辞令」、明治37年12月8日。
  32. ^ 『官報』第7200号「叙任及辞令」、明治40年7月1日。
  33. ^ 『官報』第7600号「叙任及辞令」、明治41年10月24日。
  34. ^ Let's Enjoy Tokyo
  35. ^ 地方圖書館事情 青山文庫増築落成」『高知県立図書館報』101号、高知県立図書館、1934年8月、4頁。doi:10.11501/1505633https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1505633/3 
  36. ^ 古谿荘文化財オンライン
  37. ^ 古谿荘パンフレット富士市文化振興課
  38. ^ 多摩市長が自分名義に 売却したり担保にも 事業せず負債八億『朝日新聞』1978年(昭和53年)4月18日朝刊、13版、23面

関連文献

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関連項目

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関連作品

外部リンク

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公職
先代
土方久元
日本の旗 臨時帝室編修局総裁
1918年 - 1919年
次代
(欠員→)金子堅太郎
先代
都筑馨六(→欠員)
日本の旗 図書
1898年
次代
(欠員→)清岡公張
先代
花房義質
日本の旗 宮内次官
1895年 - 1897年
次代
堤正誼
先代
芳川顕正
花房義質
日本の旗 帝室会計審査局
1893年 - 1895年
1891年 - 1892年
次代
花房義質
芳川顕正
先代
渡辺昇
日本の旗 会計検査院長
1887年 - 1888年
(渡辺昇と共同)
次代
渡辺昇
先代
岩村通俊
日本の旗 恩給局長官
1884年 - 1885年
次代
(廃止)
先代
土方久元
日本の旗 太政官文書局監督
1885年
次代
(廃止)
先代
(新設)
日本の旗 戸籍頭
1871年 - 1874年
戸籍正
1871年
次代
杉浦譲
日本の爵位
先代
陞爵
伯爵
田中(光顕)家初代
1907年 - 1932年
次代
田中遜
先代
叙爵
子爵
田中(光顕)家初代
1887年 - 1907年
次代
陞爵