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小橋一太

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小橋 一太
こばし いちた
昭和4年(1929年)
生年月日 1870年10月25日
出生地 熊本藩
没年月日 (1939-10-02) 1939年10月2日(68歳没)
出身校 東京帝国大学法科大学英法科 卒業
前職 内務官僚
所属政党立憲政友会→)
政友本党→)
立憲民政党

日本の旗 第38代文部大臣
内閣 濱口内閣
在任期間 1929年7月2日 - 同年11月29日
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小橋 一太(こばし いちた、1870年10月25日明治3年10月1日) - 1939年昭和14年)10月2日)は、日本の官僚、政治家。族籍は熊本県士族[1]

人物

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熊本県士族・小橋元雄の長男[1]旧制第五高等学校卒業。1898年(明治31年)、東京帝国大学法科大学英法科卒業[1]内務省の各局長を歴任。1918年(大正7年)、原内閣内務次官に就任。1920年(大正9年)、立憲政友会より衆議院議員に当選(以後、3期連続当選)。1924年(大正13年)、清浦内閣で内閣書記官長に就任。

政友本党に参加し、政務調査会長・幹事長を歴任。1927年(昭和2年)、立憲民政党の結成に関わる。1929年(昭和4年)、濱口内閣文部大臣に就任。

越後鉄道にまつわる汚職事件(越後鉄道疑獄)で辞任(裁判では無罪となる[2])。1937年(昭和12年)、第16代東京市市長に選出される。1939年(昭和14年)4月、東京市長退任。10月2日 死去。墓所は多磨霊園(16-1-2-2)

栄典

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位階
勲章等

墓所

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多磨霊園 昭和16年(1941年)11月29日に君碑が建立された。

脚注

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  1. ^ a b c 『人事興信録 第11版 上』コ55頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年7月25日閲覧。
  2. ^ 1931年8月11日付神戸新聞(神戸大学附属図書館新聞記事文庫)
  3. ^ 『官報』第3831号「叙任及辞令」1939年10月10日。
  4. ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」大正10年2月14日
  5. ^ 『官報』第3828号「叙任及辞令」1939年10月6日。

参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録 第11版 上』人事興信所、1937-1939年。

外部リンク

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公職
先代
水野錬太郎
日本の旗 内務次官
第22代:1918年 - 1922年
次代
川村竹治
先代
樺山資英
日本の旗 内閣書記官長
清浦内閣:1924年
次代
江木翼
先代
勝田主計
日本の旗 文部大臣
濱口内閣:1929年
次代
田中隆三
先代
牛塚虎太郎
東京市長
第16代:1937年 - 1939年
次代
頼母木桂吉