宮崎茂一
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宮崎 茂一 みやざき もいち | |
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生年月日 | 1917年2月15日 |
出生地 | 鹿児島県鹿児島郡谷山村 |
没年月日 | 2004年2月16日(87歳没) |
出身校 | 東京帝国大学工学部卒業 |
前職 | 国家公務員(運輸省) |
所属政党 |
(無所属→) 自由民主党(宮澤派) |
内閣 | 竹下改造内閣 |
在任期間 | 1988年12月27日 - 1989年6月3日 |
選挙区 | 旧鹿児島1区 |
当選回数 | 8回 |
在任期間 | 1972年12月10日 - 1996年9月27日 |
宮崎 茂一(みやざき もいち、1917年2月15日 - 2004年2月16日)は、日本の政治家、技術士(建設部門)。自由民主党衆議院議員(8期)。第42代科学技術庁長官。
来歴・人物
[編集]鹿児島県鹿児島郡谷山村大字上福元上松崎(現在の鹿児島市谷山中央)出身[1]。鹿児島県立第二中学校(現甲南高校)から第七高等学校造士館(現鹿児島大学)を経て1939年東京帝国大学工学部を卒業。
大学卒業後、内務省に入省。その後は経済企画庁を経て運輸省に移り、港湾局長などを歴任。退官後、政界入りを目指し1969年の衆議院議員総選挙に旧鹿児島1区から無所属で出馬したが落選。3年後の1972年の総選挙に再び旧鹿児島1区から無所属で出馬、初当選を飾った(当選同期に小泉純一郎・加藤紘一・山崎拓・石原慎太郎・三塚博・村岡兼造・保岡興治・瓦力・越智通雄・野田毅・深谷隆司など)。連続当選8回。
当選後は自民党に入党し、党内では宏池会(大平正芳→鈴木善幸→宮澤喜一派)に所属。郵政政務次官、行政管理政務次官、衆院法務委員長などを務め、1988年に竹下改造内閣の科学技術庁長官として初入閣を果たした。また、1993年6月から1997年6月にかけては、日本技術士会の第13代会長でもあった。1996年、政界を引退。
7期目の開票当日落選の報を受け、落選の弁を語るも報道ミスで30分後に当選の喜びを発表したというエピソードがある。
2004年2月16日、心不全のため死去。享年88(87歳没)。
1997年、故郷の権現ヶ尾へ銅像が建立されるが、2017年に本体が盗難に遭う。2018年11月、有志によって残された台座に顕彰碑が建てられた。
脚注
[編集]- ^ 『谷山市誌』 p.1198 - 谷山市、1967年
参考文献
[編集]- 「日本技術士会創立50周年記念誌」(2001年6月、日本技術士会創立50周年記念誌編集小委員会 P265)
議会 | ||
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先代 渡辺紘三 |
衆議院逓信委員長 1986年 |
次代 深谷隆司 |
先代 綿貫民輔 |
衆議院法務委員長 1983年 - 1984年 |
次代 片岡清一 |
公職 | ||
先代 伊藤宗一郎 |
科学技術庁長官 第42代:1988年 - 1989年 |
次代 中村喜四郎 |
先代 伊藤宗一郎 |
総理府原子力委員会委員長 第42代:1988年 - 1989年 |
次代 中村喜四郎 |