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森有礼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
もり 有礼ありのり
森 有禮
生年月日 1847年8月23日
弘化4年7月13日
出生地 日本薩摩国鹿児島郡鹿児島城下春日小路町
(現:鹿児島県鹿児島市春日町
没年月日 (1889-02-12) 1889年2月12日(41歳没)
死没地 日本の旗 日本東京府東京市麹町区
(現:東京都千代田区
出身校 造士館
薩摩藩開成所
前職 武士薩摩藩士)
外交官
称号正二位
勲一等旭日大綬章
子爵
配偶者 森常(前妻)
森寛子(後妻)
子女 森清(長男)
森明(三男)
親族 森有恕(父)
横山安武(四兄)
岩倉具視(義父)
岩倉槇子(義母)
岩倉具義(義兄)
岩倉具定(義兄)
岩倉具経(義兄)
戸田極子(義姉)
岩倉道倶(義弟)
森有剛(孫)
森有正(孫)
関屋綾子(孫)

日本における郵船商船規則の旗 初代 文部大臣
内閣 第1次伊藤内閣
黒田内閣
在任期間 1885年12月22日 - 1889年2月12日

日本における郵船商船規則の旗 参事院議官
在任期間 1884年5月7日 - 1885年12月22日

日本における郵船商船規則の旗 外務大輔
在任期間 1878年 - 1879年
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森 有礼(もり ありのり、旧字体森 有禮1847年8月23日弘化4年7月13日) - 1889年明治22年)2月12日)は、日本政治家外交官思想家教育者[1]通称助五郎金之丞栄典正二位勲一等子爵

第1次伊藤内閣で初代文部大臣となり、諸学校令制定により大日本帝国期の教育制度を確立した。また明六社商法講習所一橋大学の前身)の設立者、東京学士会院日本学士院の前身)会員であり、明治六大教育家に数えられる。

来歴

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弘化4年(1847年)、薩摩国鹿児島城下春日小路町(現在の鹿児島県鹿児島市春日町)で薩摩藩士森喜右衛門有恕の五男として生まれた。兄に横山安武がいる。安政7年(1860年)頃より造士館漢学を学び、元治元年(1864年)頃より藩の洋学校である開成所に入学し、英学講義を受講する。

慶応元年(1865年)、五代友厚らとともにイギリス密航留学し(薩摩藩第一次英国留学生ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンで学ぶ[2]。ロンドンでは長州五傑と会う。その後、ロシア帝国を旅行し、さらにローレンス・オリファントの誘いでアメリカにも留学し、オリファントの信奉する新興宗教トマス・レイク・ハリスの教団「Brotherhood of the New Life」と生活をともにし、キリスト教に深い関心を示した[3]。また、アメリカの教科書を集める。

明治元年(1868年)6月帰国。7月25日外国官権判事に任じられた[4] [5]。22歳で高官になり月俸200円を給されていたが、30円で十分だと、9月10日、鮫島尚信と共に、自分たちの「減俸嘆願書」を上申した。

明治3年(1870年)秋、 少弁務使[6]としてアメリカに赴任する。

1872年2月3日、アメリカ駐在少弁務使としてアメリカの有識者に日本の教育について意見を求める(その返書を1873年『Education in Japan』(『日本における教育』)として刊行)。1872年11月25日、ワシントンで『Religious Freedom in Japan』(『日本における宗教の自由』)を発表。

明治6年(1873年)夏、帰国すると福澤諭吉西周西村茂樹中村正直加藤弘之津田真道箕作麟祥らと共に明六社を結成する。1874年5月から1875年2月に『明六雑誌』に「妻妾論」を発表。一夫一婦を主張する。

明治8年(1875年)、東京銀座尾張町に私塾・商法講習所一橋大学の前身)を開設する。駐英公使をつとめていたときに、ハーバート・スペンサーから大きな影響をうけたといわれる。

同年2月6日、福澤諭吉が証人となり、幕臣広瀬秀雄の娘広瀬常との結婚に際して3か条を交換して婚姻契約書に署名し結婚した(第3条に夫婦の共有物は無断で処分してはならぬ旨条項あり)。契約結婚のはしりと言われた。

同年11月、清国公使になる。明治9年(1876年)1月、保定府北京の南方)で李鴻章と会談。

明治12年(1879年)11月、英国公使になる。

明治18年(1885年)12月22日、第1次伊藤内閣の下で初代文部大臣に就任し(死没日まで)、東京高等師範学校東京教育大学を経た、現在の筑波大学)を「教育の総本山」と称して改革を行うなど、日本における教育政策に携わる。また、「良妻賢母教育」こそ国是とすべきであると声明。翌年それに基づく「生徒教導方要項」を全国の女学校と高等女学校に配る。

明治19年(1886年)には、学位令を発令し、日本における学位として大博士博士の二等を定めたほか、教育令に代わる一連の「学校令」の公布に関与し、様々な学校制度の整備に奔走した。黒田内閣でも留任。

明治20年(1887年)4月には、大日本教育会の果たすべき役割の重要性について私案を提出している(1884年の学習院講堂で開かれた常集会でも大木喬任とともに演説を行っている)[7]

しかし明治22年(1889年)2月11日の大日本帝国憲法発布式典の日、それに参加するため官邸を出た所で国粋主義者・西野文太郎に短刀で脇腹を刺された。応急手当を受けるが傷が深く、翌日午前5時に死去[8]。43歳だった。

当時の新聞が、「ある大臣が伊勢神宮内宮を訪れた際、社殿にあった御簾ステッキでどけて中を覗き、土足厳禁の拝殿を靴のままで上った」と報じ(伊勢神宮不敬事件)問題となった。この「大臣」とは森のことではないのかと、急進的な欧化主義者であった森に人々から疑いの目が向けられる事となった。この事件は事実かどうかは定かではないが、この一件が森が暗殺される原因になった。木場貞長はのちにこの事件は事実無根であると書き残している。

人物

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森有礼(1871年)
  • 英語国語化を提唱(国語外国語化論)。
  • 森の国語英語化論においては、馬場辰猪西周清水卯三郎黒川真頼が反対の説を唱えた。黒川真頼は明治8年(1875年)6月、『言語文字改革ノ説ノ弁』を『洋々社談』第二号に発表し、痛烈に批判した[9][10]
  • 森の急進的な考えには当時の大衆の感覚とは乖離したものがあり、「明六の幽霊(有礼)」などと皮肉られもした。
  • 明治4年(1872年)に設立された日本アジア協会の会員であった(設立時点で唯一の日本人会員[11][12])。明治6年(1874年)2月の例会で神道に関するディスカッションが行われた際には、「神道の中心思想は死者に対する敬虔な崇拝だ。日本の絶対主義的現政権を維持するために政府が巧みにこれを政治利用したことは実に正当だったと考えるが、日本の初期の歴史記録とされている書物は信頼に値するとは到底言えない」という意見をのべている[11][13]
  • 広瀬常との結婚は、日本における最初の契約結婚となった。契約は「それぞれが妻、夫であること」、「破棄しない限り互いに敬い愛すこと」、「共有物については双方の同意なしに貸借売買しないこと」の3条から成り、福沢諭吉が証人となった[14]。常とは、結婚11年目に常の素行上の理由で双方納得のうえ離婚した[14]
  • 将棋を愛好し、福沢諭吉服部金太郎芳川顕正らとともに名人小野五平の後援者であった[15]

家族

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  • 父・森有恕、母・阿里
  • 長兄・喜藤太有秀、次兄・喜八郎(青山良顕)、三兄・三熊(夭折)、四兄・喜三次(横山正太郎安武。1870年政府に建白し自刃)
  • 最初の妻・広瀬常(1855年生)。静岡県の士族広瀬秀雄の長女[16]開拓使女学校[17]。1875年に森と契約結婚し、外交官の妻として英国に4年半滞在、帰国後離婚[16]。森との間に3児。長男・森清(貴族院子爵議員)[18]。次男・森英、長女・安。離婚の原因として娘の安が青い目の子であったためとする説があったが、作家の森本貞子は、常の実家の養嫡子となった広瀬重雄が森の恩人である伊藤博文の暗殺を企てた静岡事件の首謀者であったためという説をとっている[19]。常の妹・福子は明治屋創業者・磯野計の妻。
  • 後妻・岩倉寛子岩倉具視の娘)。有馬頼萬との間で離婚歴有り[20]。森の死亡により結婚生活は約1年半。
  • 中渋谷教会の牧師・森明は寛子との息子である。その娘・関屋綾子は一家について『一本の樫の木 淀橋の家の人々』(1981年)を刊行。
  • 仏文学者哲学者森有正は有礼の孫(明の子)にあたる。

墓所・霊廟・銅像

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若き薩摩の群像

墓所は青山霊園(1イ1-12)

昭和57年(1982年)、鹿児島中央駅前東口広場に彫刻家の中村晋也が制作した薩摩藩英国留学生の像『若き薩摩の群像[21]』の一人として銅像が建てられている。

年譜

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  • 弘化4年(1847年) - 誕生。
  • 安政5年(1858年) - 藩校「造士館」入学。
  • 元治元年(1864年) - 藩洋学校「開成所」入学。
  • 慶応元年(1865年) - 薩摩藩英国留学生として英国渡航。ロシア旅行。
  • 慶応3年(1867年) - 米国渡航、新興宗教トマス・レイク・ハリス教団に所属。
  • 明治元年(1868年) - 帰国後、徴士外国官権判事、学校取調兼勤。
  • 明治2年(1869年) - 廃刀案を否決され辞表提出、佐賀の兄・横山安武を訪問。
  • 明治3年(1870年) - 興国寺跡で英学塾を開く。横山安武自刃。12月に外山正一ら5名を伴い少弁務使として米国渡航(1871年1月)。任務は米国との外交事務と留学生の管轄[22]
  • 明治5年(1872年) - 米国中弁務使、ついで米国代理公使に昇任。
  • 明治6年(1873年) - 帰国後「明六社」結成,外務大丞に昇任。
  • 明治8年(1875年) - 広瀬常と結婚。このとき日本で初めての婚姻届が出される。長男・森清誕生。特命全公使として清国渡航。
  • 明治10年(1877年) - 帰国後、外務卿代理に昇任。
  • 明治11年(1878年) - 外務大輔に昇任。
  • 明治12年(1879年) - 駐英公使として英国渡航。
  • 明治17年(1884年) - 帰国後、参事院議官、文部省御用掛兼勤。
  • 明治18年(1885年) - 第一次伊藤内閣初代文部大臣就任。「学政要領」立案。
  • 明治19年(1886年) - 学位令、師範学校令、小学校令、中学校令、諸学校通則などを公布。妻の常と離婚。このとき日本で初めての離婚届が出される。
  • 明治20年(1887年) - 岩倉寛子と再婚。子爵となる。各地で学事巡視。伊勢神宮不敬事件起こり、森が疑われる。
  • 明治21年(1888年) - 三男・森明誕生。
  • 明治22年(1889年) - 刺殺され、43歳(数え年)で没。

[23]

栄典

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位階
勲章等

著作

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著書
  • Religious Freedom in Japan : a memorial and draft of charter. 1872.
    • 「英文日本宗教自由論」(吉野作造編輯代表 『明治文化全集 第11巻 宗教篇』 日本評論社、1928年9月 / 明治文化研究会編 『明治文化全集 第19巻 宗教篇』 日本評論社、1967年8月 / 明治文化研究会編 『明治文化全集 第12巻 宗教篇』 日本評論社、1992年10月、ISBN 4535042527
    • 「日本に於ける宗教の自由」(三枝博音清水幾太郎編 『日本哲学思想全書 第8巻 宗教 宗教論一般篇』 平凡社、1955年12月)
  • On a representative system of government for Japan.
    • 「日本政府代議政体論」(江村栄一校注 『日本近代思想大系 9 憲法構想』 岩波書店、1989年7月、ISBN 4002300099
  • The proposed national assembly in Japan. Gibson Bros., printers, 1883.
編書

脚注

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  1. ^ 教育家・外交官→ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「森有礼」、政治家→旺文社日本史事典 三訂版「森有礼」、思想家→精選版 日本国語大辞典「森有礼」
  2. ^ 森有礼高等教育国際流動化機構 『概要』 一橋大学
  3. ^ 菊池 美智子「教育史における森有礼の評価」『教育學雑誌』第15巻、日本大学教育学会、1981年、48-57頁、ISSN 2189-9355 
  4. ^ 南日本放送の幕末維新ニュースでは12月4日としている。
  5. ^ 明治元年12月4日 薩摩出身3人が外国官職員に”. 幕末維新ニュース. 南日本放送 (2018年12月4日). 2023年9月13日閲覧。
  6. ^ 弁務使”. アジア歴史資料センター. 2023年9月13日閲覧。
  7. ^ 『澤柳柳太郎と帝国教会-成城大学』
  8. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)311頁
  9. ^ 吉田澄夫『明治以降國語問題論集』P617. 風間書房. (1964) 
  10. ^ 資料日本英学史 P25. 大修館書店. (1988) 
  11. ^ a b アーネスト・サトウ 著、庄田元男 訳『アーネスト・サトウ 神道論』平凡社平凡社東洋文庫 ; 756〉、2006年、274頁。ISBN 4582807569 
  12. ^ 楠家 2017, p. 34.
  13. ^ 楠家 2017, p. 73.
  14. ^ a b 『朝日新聞の記事にみる恋愛と結婚』朝日新聞社、1997, p37
  15. ^ 週刊将棋編『名局紀行』(毎日コミュニケーションズ)P.47
  16. ^ a b 広瀬常(読み)ひろせ つねコトバンク
  17. ^ 『女たちの明治維新』鈴木由紀子、2010年07月「森有礼と契約結婚した広瀬常」の項
  18. ^ 『平成新修 旧華族家系大成 下巻』。
  19. ^ 『秋霖譜―森有礼とその妻』森本貞子、東京書籍 (2003/7/1)
  20. ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、602頁。ISBN 978-4-06-288001-5 
  21. ^ 若き薩摩の群像”. 鹿児島県観光連盟. 2014年5月14日閲覧。
  22. ^ 外山正ーとミシガン大学秋山ヒサ、神戸女学院大学論集 29(1), p1-18, 1982-07
  23. ^ 森有礼略年譜鹿児島県立図書館
  24. ^ 『官報』第678号「賞勲叙任」1885年10月2日。
  25. ^ 『官報』第993号「叙任及辞令」1886年10月20日。
  26. ^ 『官報』第1686号、1889年2月15日、145頁
  27. ^ 『官報』第1156号「叙任及辞令」1887年5月10日。

参考文献

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関連文献

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関連作品

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小説
テレビドラマ

関連項目

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外部リンク

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公職
先代
大木喬任
文部卿
日本の旗 文部大臣
初代:1885年12月22日 - 1889年2月12日
次代
大山巌
(臨時兼任)
先代
鮫島尚信(→欠員)
日本の旗 外務大輔
1878年 - 1879年
次代
榎本武揚
先代
(新設)
日本の旗 中央衛生会
1879年
次代
佐野常民
先代
山口尚芳(→欠員)
日本の旗 外務少輔
1875年
次代
(欠員→)上野景範
学職
先代
(新設)
明六社
1874年 - 1875年
次代
箕作秋坪
日本の爵位
先代
叙爵
子爵
森(有礼)家初代
1887年 - 1889年
次代
森清