佐藤正二
佐藤 正二(さとう しょうじ、1913年10月15日[1] - 2001年12月12日)は、日本の外交官。外務大臣官房長、外務事務次官、駐中国特命全権大使。
人物・経歴
[編集]東京出身。府立一中[2]を経て、1934年第一高等学校文科丙類卒業[3]。1940年東京帝国大学法学部政治学科卒業[4]、外務省入省。1952年外務省条約局第二課長[5]。1954年外務省条約局第三課長[6]。1955年外務省条約局第一課長[7]。1957年在ジュネーヴ国際機関日本政府代表部一等書記官[8]。1958年在ジュネーヴ国際機関日本政府代表部参事官[9]。1961年外務大臣官房会計課長[10]。
1963年外務省移住局外務参事官[11]。1964年外務省条約局外務参事官[12]。1965年外務大臣官房審議官[13]。同年在フランス日本国大使館公使[14]。1966年在フランス日本大使館特命全権公使[15]。1967年外務省条約局長[16]。1969年外務大臣官房長[17]。1972年外務大臣官房審議官[18]。1973年スペイン国駐箚特命全権大使[19]。
1975年外務事務次官、国防会議幹事[20]、中央駐留軍関係離職者等対策協議会委員[21]、文部省日本ユネスコ国内委員会委員[22]。1977年中華人民共和国駐箚特命全権大使[23]。1978年兼カンボディア国駐箚[24]。1978年に最終調印した日中平和友好条約の現場事務担当者[25]。
1980年神戸製鋼所顧問[26]、公安審査委員会委員[27]。1983年国際交流基金理事長。1986年勲一等瑞宝章受章[28]。2001年12月12日、呼吸不全のため新宿区の病院で死去[29]。
家族
[編集]父は衆議院議員の佐藤潤象。外交官の佐藤敏人や官僚の佐藤朝生は兄[30][31]。外交官の西田誠哉は義弟[32]。父の潤象はもともと大倉喜八郎らと事業を起した実業家であり、甥の佐藤晃一はホテルオークラ社長を務めた[30]。
出典
[編集]- ^ 『現代物故者事典2000~2002』(日外アソシエーツ、2003年)p.286
- ^ 『東京府立第一中学校五十年史』巻末「如蘭会員及現在生徒名簿」(東京府立第一中学校、1929年)参照
- ^ 第一高等学校一覧 昭和10至11年
- ^ 東京帝国大学一覧 昭和15年度
- ^ 官報昭和27年本紙第7796号 584頁
- ^ 官報昭和29年本紙第8248号 59頁
- ^ 官報昭和30年本紙第8607号 147頁
- ^ 官報昭和32年本紙第9085号 160頁
- ^ 官報昭和34年本紙第9628号 417頁
- ^ 官報昭和36年本紙第10336号 166頁
- ^ 官報昭和38年本紙第10911号 5頁
- ^ 官報昭和39年本紙第11359号 9頁
- ^ 官報昭和40年本紙第11502号 11頁
- ^ 官報昭和40年本紙第11567号 16頁
- ^ 官報昭和41年本紙第11990号 16頁
- ^ 官報昭和42年本紙第12312号 9頁
- ^ 官報昭和44年本紙第12894号 20頁頁
- ^ 官報昭和47年本紙第13606号 16頁
- ^ 官報昭和48年本紙第13826号 15頁
- ^ 官報昭和50年本紙第14595号 14頁
- ^ 官報昭和50年本紙第14616号 11頁
- ^ 官報昭和50年本紙第14624号 23頁
- ^ 官報昭和52年本紙第15140号 14頁
- ^ 官報昭和53年本紙第15440号 11頁
- ^ 40歳の日中平和友好条約 交渉の最終局面を現地取材(近藤龍夫) 日本記者クラブ、2018年10月
- ^ 官界通信 : 政策評価・人事政策等行政・人事情報紙 (1462)
- ^ 官報昭和55年本紙第16134号 28頁
- ^ 官報昭和61年本紙第17771号 7頁
- ^ 佐藤正二氏死去/元外務事務次官、元中国大使 四国新聞、2001/12/13 18:07
- ^ a b 佐藤潤象 (第8版 [昭和3(1928)年7月 の情報)]日本研究のための歴史情報『人事興信録』データベース
- ^ 週刊読売 = The Yomiuri weekly 39(33)(1659);1980・8・10
- ^ 日本を元気にするオピニオン雑誌 13(4) 書誌情報 : 文藝春秋 1981-04
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