田中都吉
田中 都吉(たなか ときち、1877年1月26日 - 1961年10月3日)は、日本の外交官。外務次官、在ソヴィエト連邦特命全権大使、同盟通信社理事会長、日本新聞会会長等を務めた。
来歴・人物
[編集]京都府宮津市生まれ[1]。旧制京都府尋常中学校(京都府立洛北高等学校・附属中学校の前身)経て、1898年東京高等商業学校(一橋大学の前身)領事科卒[2]。
1898年外交官および領事官試験に合格し外務省入省、同年から領事官補としてソウル、ホノルル、ニューヨークに在勤。1903年から領事として、シンガポール、香港、シアトルに在勤。1908年に帰国し、通商局第二課長に就任。
駐アメリカ合衆国日本大使館参事官を経て、1919年外務省通商局長、1921年同省情報部次長、1922年同省次官兼臨時平和条約事務局長兼情報部長[2]。
辞職し、1924年ジャパンタイムズ社長。1925年に日ソ基本条約が締結されると、初代駐ソヴィエト連邦特命全権大使[2]。
1930年待命、1933年中外商業新報(のち日本経済新聞)社長、1935年如水会第5代理事長、同年同盟通信社創立委員長、1936年同盟通信社理事会長兼社長代理。同年正力松太郎、緒方竹虎と合流交渉委員を務め、岩永裕吉、上田碩三に対し、電通合流に関する最終案を提示。1941年初代日本新聞連盟理事長、1942年初代日本新聞会会長、1943年貴族院議員、1944年同盟通信社顧問[3][4]。新聞統制に携わった[5][6]。
1946年5月16日、貴族院議員を辞職し[7]、1947年に公職追放となる。公職追放令解除後は1951年から電通常務取締役を務め、同社取締役在任中の1961年に死去した[8]。墓所は青山霊園。
駐ソ連大使として日ソ漁業条約の交渉にあたるなどした。
栄典
[編集]- 1921年(大正10年)7月1日 - 第一回国勢調査記念章[9]
- 1921年ルーマニア勲一等王冠勲章[10]
- 1921年従四位[11]
- 1923年正四位[11]
- 1924年勲一等瑞宝章
- 1926年中華民国一等大綬宝光嘉禾章[12]
- 1928年従三位[13]
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[14]
- 1961年勲一等旭日大綬章
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ 田中 都吉(読み)タナカ トキチ20世紀日本人名事典
- ^ a b c d 田中都吉日本研究のための歴史情報『人事興信録』データベース
- ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』135頁。
- ^ (社)同盟通信社『通信社史』(1958.12)
- ^ ◆『Intelligence』購読会員の皆さまへ:ニューズ・レターNo.41(2016 年 11 月号)早稲田大
- ^ (社)共同通信社『共同通信社年表』
- ^ 『官報』第5803号、昭和21年5月22日。
- ^ (株)電通『電通66年』(1968.12)
- ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。
- ^ 外務次官埴原正直外十四名外国勲章記章受領及佩用ノ件国立公文書館
- ^ a b 元外務次官田中都吉特旨叙位ノ件国立公文書館
- ^ 叙勲裁可書・大正十五年・叙勲巻七・外国勲章記章受領及佩用一国立公文書館
- ^ 特命全権大使田中都吉叙位ノ件国立公文書館
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
参考文献
[編集]- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『日本近現代人物履歴事典』(東京大学出版会、2002年)
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