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伊沢修二

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
伊沢いさわ 修二しゅうじ
還暦記念写真(1911年
誕生 (1851-07-27) 1851年7月27日嘉永4年6月29日
信濃国伊那郡高遠城下(現・長野県伊那市高遠町
別名 楽石()、八弥(幼名
死没 (1917-05-03) 1917年5月3日(65歳没)
墓地 雑司ヶ谷霊園東京都豊島区南池袋
職業 官吏教育者
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 ブリッジウォーター師範学校
代表作 『教育学』(1882-1883年)
『小学唱歌集』(1882-1884年)
『視話法』(1901年)
配偶者 千代(森重遠長女)
子供 夏(長女・遠藤隆吉妻)、和歌(次女・清水一徳妻)、乙女(三女・呉振麟妻)、寿天(四女・生田矢一妻)、勝麿(長男)
親族 文谷(父)、多計(母・内田文右衛門次女)、須田経哲(叔父)、内田文皐(叔父)、富次郎(弟)、信三郎(弟)、寛(妹・立花小一郎妻)、多喜男(弟)、末五郎(弟)、稲畑登美(千代妹・稲畑勝太郎妻)、とく(多喜男妻・色川三郎兵衛三女)、須田卓爾(従兄弟)、内田孝蔵(従兄弟)、甲子麿(孫)
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伊沢 修二

選挙区 勅選議員
在任期間 1897年12月23日[1] - 1917年5月3日

選挙区 小石川区
在任期間 1889年6月 - 1895年6月

在任期間 1889年11月 - 1895年11月
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伊沢 修二(いさわ しゅうじ、旧字体:伊澤1851年7月27日嘉永4年6月29日) - 1917年大正6年)5月3日)は、日本教育者文部官僚[4]。近代日本の音楽教育吃音矯正の第一人者である。楽石

生涯

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生家(長野県伊那市)

信濃国高遠城下(現在の長野県伊那市高遠町)に高遠藩士の父・勝三郎、母・多計の子として生まれる。幼名は八弥。父は20俵2人扶持の低禄の下級武士のため極端な貧乏暮らしだった(事実上1年4人で分け与えなけければならないこととなっている)。

1861年文久1年)から藩校進徳館で学び、1867年慶応3年)に江戸へ出府。ジョン万次郎に英語を学ぶ[5]。万次郎が欧米に出張すると、1869年(明治2年)に築地に転居したアメリカ合衆国長老教会宣教師カラゾルスから英語を学ぶ[注釈 1]

京都へも遊学して蘭学などを学ぶ。同年には藩の貢進生として大学南校(のちの東京大学)に進学する。

1872年(明治5年)には文部省へ出仕し、のちに工部省へ移る。1874年(明治7年)に再び文部省にもどって愛知師範学校校長となる。3月、同校付属幼稚園で、日本の童謡をつかって遊戯唱歌を始める[6]。1875年(明治8年)7月18日には師範学校教育調査のために、神津専三郎高嶺秀夫アメリカ合衆国へ留学、マサチューセッツ州ブリッジウォーター師範学校英語版で学び、同時にグラハム・ベルから視話術を、ルーサー・メーソンから音楽教育を学ぶ。同年10月にはハーバード大学で理化学を学び、地質研究なども行う。聾唖教育も研究する。1878年(明治11年)5月に帰国。

1879年(明治12年)3月には東京師範学校(現在の筑波大学)の校長となり、音楽取調掛に任命されるとメーソンを招く。来日したメーソンと協力して西洋音楽を日本へ移植し、『小學唱歌集』を編纂。田中不二麿が創設した体操伝習所の主幹に命じられる。1879年10月に、文部卿寺島宗則に、「音楽取調ニ付見込書」を提出した。1886年(明治19年)3月、文部省編輯局長に就任。1888年(明治21年)には東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)、東京盲唖学校(現在の筑波大学附属視覚特別支援学校)の校長となり、国家教育社を創設して忠君愛国主義の国家教育を主張、教育勅語の普及にも努める。

内閣制度が発足し、1885年(明治18年)に森有礼文部大臣に就任すると、教科書の編纂などに務める。1890年(明治23年)5月30日に国家教育社を組織して国家主義教育の実施を唱導し10月12日『国家教育』を創刊し、翌年に文部省を非職となってからは更に国立教育運動に力を注いだ。その後、1892年(明治25年)8月に国立教育期成同盟を結成して小学校教育費国庫補助運動を開始する。1894年(明治27年)の日清戦争後に日本が台湾を領有すると、台湾へ渡り台湾総督府民政局学務部長心得に就任、統治教育の先頭に立っている。1895年(明治28年)6月に、台北北部の芝山巌(しざんがん)に小学校「芝山巌学堂」を設立。翌1896年(明治29年)1月、伊沢が帰国中に、日本に抵抗する武装勢力に同校が襲撃され、6名の教員が殺害される事件が発生した(芝山巌事件)。

1897年(明治30年)には貴族院勅選議員。晩年は高等教育会議議員を務めたほか、吃音矯正事業に務め、1903年に楽石社を創設。1917年、脳出血のため67歳で死去[7]

墓所は雑司ヶ谷霊園

祝日大祭日唱歌「紀元節」や唱歌「皇御国」「来たれや来たれ(皇国の守)」などを作曲。『生物原始論』を翻訳し、進化論を紹介する。著作に『教育学』、『小学唱歌』、『学校管理法』ほか。

エピソード

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  • 留学中にアレクサンダー・グラハム・ベル電話を発明したことを聞きつけ金子堅太郎と共にボストンにあった下宿先を訪問した。グラハム・ベルは電話の実用化に向けてスポンサーを探しており、外国人が興味を持ったことを喜んで2人に通話を体験させた。金子の回想によると英語以外の通話としてもこれが初だと説明を受けたという。
  • 芝山巌学堂の場所には、芝山巌事件で殉職した日本人教師6名を指す「六氏先生」を追悼して、伊藤博文揮毫による「学務官僚遭難之碑」が建立された。戦後、台湾が中国国民党政府に接収されると石碑は倒され、長く放置されていたが、台湾の民主化後、民進党陳水扁台北市長時代に復元された。
  • 国語清音法・吃音矯正法の教師育成に尽力した。伊沢の没後もこれらの教師が、国内のみでなく、楽石社を通じて朝鮮台湾ハワイからの希望者を指導した。
  • 「Hänschen klein」は、米国では「Lightly Row」という表題でドイツの歌詞とは無関係にボートを漕ぐ様子を歌った曲になり、19世紀前半には広く知られる童謡となっていた。1875年(明治8年)から1878年(明治11年)まで米国へ留学した際、ブリッジウォーター師範学校(英語版)でルーサー・メーソン(1818年 - 1896年)よりこの曲を教わり、日本へ紹介したのではないかと推測されている。結果、代表的な日本唱歌の1つである蝶々のメロディとなった。

親族

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栄典・授章・授賞

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1899年頃の肖像
位階
勲章等

著作

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著書
訳書
編書

脚注

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注釈

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  1. ^ カラゾルス宣教師は1869年の年末までに伊沢たち若者に一日2時間半の授業を行う本格的な英語塾を開いた。これは、東京における最初のミッションスクールになった(『長老・改革教会来日宣教師事典』 63頁)。

出典

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  1. ^ 『官報』第4346号、明治30年12月24日。
  2. ^ 東京市会事務局編輯 『東京市会史 第一巻』 東京市会事務局、1932年8月、131-133頁343-344頁580-581頁
  3. ^ 小石川区役所編輯 『小石川区会史 上巻』 小石川区役所、1938年3月、43-45頁
  4. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ),デジタル版 日本人名大辞典+Plus「伊沢修二」
  5. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 89頁。
  6. ^ 文部省第2年報
  7. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)3頁
  8. ^ a b c d e f g h 「伊沢修二年譜」(『伊沢修二選集』)。
  9. ^ 『官報』第578号、1885年6月6日、10頁
  10. ^ 『官報』第3988号「叙任及辞令」1896年10月12日。
  11. ^ a b 『官報』第1425号、1917年5月4日、89頁
  12. ^ 『官報』第1935号「叙任及辞令」1889年12月9日。
  13. ^ 『官報』第2251号「叙任及辞令」1890年12月27日。
  14. ^ 『官報』第3861号「叙任及辞令」1896年5月15日。
  15. ^ 『官報』第5243号「叙任及辞令」1900年12月21日。
  16. ^ 『官報』第1218号、1916年8月21日、454頁

参考文献

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関連文献

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  • 「伊沢修二君還暦祝賀会記事畧」(前掲 『楽石自伝 教界周遊前記』)
  • 正五位勲二等伊沢修二勲章加授ノ件」(国立公文書館所蔵 「叙勲裁可書・大正六年・叙勲巻二」) - アジア歴史資料センター Ref.A10112836000
  • 田村虎蔵 「教育界の耆宿伊沢修二先生逝く」(『教育研究』第166号、初等教育研究会、1917年6月 / 第168号、1917年8月 / 第169号、1917年9月)
  • 『楽石叢誌』第35輯(伊沢先生追悼号)、楽石社、1917年7月
  • 『楽石叢誌』第37輯(伊沢先生記念号)、楽石社、1918年7月
  • 故伊沢先生記念事業会編 『楽石 伊沢修二先生』 故伊沢先生記念事業会、1919年11月
    • 前掲 『楽石自伝 教界周遊前記 楽石 伊沢修二先生』
  • 台湾教育会 『伊沢修二先生と台湾教育』 台湾教育会、1944年
    • 阿部洋ほか編 『日本植民地教育政策史料集成 台湾篇第19巻』 龍溪書舎、2009年
  • 上沼八郎 『伊沢修二』 吉川弘文館人物叢書〉、1962年、ISBN 4642051287
  • 『信濃教育』第972号(特集 伊沢修二の人と業績)、信濃教育会、1967年11月
  • 原平夫 『伊沢修二 伊沢多喜男』 伊那毎日新聞社〈上伊那近代人物叢書〉、1987年
  • 高遠町図書館編著 『伊澤修二 : その生涯と業績』 高遠町、1987年
    • 森下正夫 『伊澤修二 : その生涯と業績』 高遠町図書館、2003年
    • 森下正夫 『伊澤修二 : 明治文化の至宝』 伊那市教育委員会、2009年
  • 『伊那路』第31巻第10号(特集 伊沢修二先生)、上伊那郷土研究会、1987年10月
  • 宮坂勝彦編 『伊沢修二 : 見果てぬ夢を』 銀河書房〈信州人物風土記・近代を拓く〉、1989年
  • 埋橋徳良 『伊沢修二の中国語研究 : 日中文化交流の先覚者』 銀河書房、1991年
    • 埋橋徳良著 『日中言語文化交流の先駆者 : 太宰春台、阪本天山、伊沢修二の華音研究』 白帝社、1999年、ISBN 4891743905
  • 高遠町図書館編 『伊沢修二資料目録』 高遠町図書館、1995年
  • 堀口修 「伊沢修二」(伊藤隆季武嘉也編 『近現代日本人物史料情報辞典』 吉川弘文館、2004年7月、ISBN 4642013415
  • 奥中康人 『国家と音楽 : 伊澤修二がめざした日本近代』 春秋社、2008年、ISBN 9784393930236
  • 吉田孝 『毫モ異ナル所ナシ : 伊澤修二の音律論』 関西学院大学出版会、2011年、ISBN 9784862830876
  • 木下知威編 『伊沢修二と台湾』 国立台湾大学出版中心〈日本学研究叢書〉、2018年11月、ISBN 9789863502821
  • 大日方純夫著『唱歌「蛍の光」と帝国日本』〈歴史文化ライブラリー 558〉、吉川弘文館、2022年10月、ISBN 9784642059589
  • 大浜郁子「台湾統治初期における植民地教育政策の形成 : 伊沢修二の「公学」構想を中心として」(『日本植民地研究』第15号、日本植民地研究会、2003年6月、NAID 40016093495

外部リンク

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公職
先代
(新設)
日本の旗 台湾総督府民政局学務部長
1896年 - 1897年
部長心得
1895年 - 1896年
次代
児玉喜八
先代
矢田部良吉
日本の旗 東京盲唖学校長
1890年
次代
校長事務取扱
服部一三
先代
(新設)
日本の旗 愛知師範学校
1874年 - 1875年
次代
校長補
日原昌造