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山川浩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山川やまかわ ひろし
渾名 知恵山川
生誕 1845年12月4日弘化2年11月6日
日本の旗 陸奥国会津若松(現在の福島県会津若松市
死没 (1898-02-04) 1898年2月4日(52歳没)
日本の旗 東京府東京市(現在の東京都
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1873年 - 1888年
最終階級 陸軍少将
除隊後 高等師範学校長貴族院議員
墓所 青山霊園(東京都港区
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山川 浩

選挙区勅選議員
在任期間 1890年9月29日 - 1898年2月4日

在任期間 1871年(明治4年) - 同年
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山川 浩(やまかわ ひろし、弘化2年11月6日1845年12月4日〉- 明治31年〈1898年2月4日)は、日本武士会津藩家老)、陸軍軍人政治家教育者。最終階級陸軍少将位階勲等爵位従三位勲三等男爵

陸軍省人員局長 兼 輜重局長、陸軍省総務局制規課長、高等師範学校長貴族院議員を歴任した。明治初年までのは重栄、は士亮、通称大蔵(おおくら)、与七郎。は屠竜子。

生涯

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幕末

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斗南藩士時代の山川

祖父は、会津藩家老・山川兵衛 重英[1]。父は、山川尚江 重固[2]。山川家の家禄は1千[2][3][4]

祖父の重英が高齢まで隠居せずに家老職にあったため、父の重固は山川家の嗣子の立場で会津藩に出仕して郡奉行主役を務めていた[5]。重英が、安政6年(1859年)に数え76歳[注釈 1]で隠居したことで、重固は数え48歳で家督を継いだが、翌年の安政7年/万延元年(1860年)に病没した(当時の数え49歳は、既に高齢)[5]

母は、会津藩士・西郷十郎右衛門 近登之[注釈 2]の娘・唐衣[7]。姉に山川二葉、弟に山川健次郎、妹に山川常盤、大山捨松らがいる。

安政7年/万延元年(1860年)、父・重固の死去により数え16歳で家督を相続し、山川大蔵 重栄と名乗った。文久2年(1862年)、藩主・松平容保京都守護職拝命に伴って上洛した。慶応2年(1866年)には幕府の遣露使節団の一員としてフランスへ渡航し、陸路プロシアなどを経てロシアを訪問した。この際にヨーロッパ諸国の発展ぶりを見聞して世界の大勢を知り、劣勢である自国を省みて、攘夷の非を悟ったと伝えられている。(「樺太島仮規則」)

戊辰戦争では、鳥羽・伏見の戦いを経て江戸会津へと転戦するなど、会津藩若年寄として戦費調達や藩兵の西洋化などに尽力した。日光口の戦いでは、土佐藩谷干城が率いる部隊を相手に戦うも敗北し、会津西街道の藤原まで撤退した。藤原では追撃してくる敵軍を敗走させた。その後敵軍は、中村半次郎が来るまで日光口からは会津に突入することは出来なかった[8]。続く会津戦争では撤兵が遅れたため、既に包囲されていた会津若松城に入城できなかったため、会津地方の伝統芸能彼岸獅子を先頭で舞わせながら、この勢いに紛れて入城するという奇策を使った。入城前に会津藩家老に任じられていた山川は、入城後は籠城戦の総指揮官(防衛総督)として戦った[9]。籠城戦のさなかに妻・トセが敵の砲弾により爆死している[10][11]。戦後は禁固謹慎に処せられ、明治3年(1870年)には会津藩が転封された先の斗南藩権大参事に就いた。しかし斗南藩の実収は少なかったため藩士らの生活は困窮し、自身も妹・咲子(後の捨松)を函館里子に出すなどの苦労を重ねている。

明治期

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陸軍歩兵少佐時代の山川

廃藩置県後は青森県に出仕したが、戊辰戦争での活躍を識る谷干城の推薦により、明治6年(1873年)に陸軍に八等出仕した。同年、陸軍歩兵少佐として熊本鎮台に移り、明治7年(1874年)には佐賀の乱で左腕に重傷を負ったが、軍功により陸軍歩兵中佐に昇進した。明治10年(1877年)の西南戦争には征討軍団参謀として出征した。熊本鎮台司令長官・谷干城が立て篭もる熊本城は西郷軍が攻撃中であったが、選抜隊を率いた山川は戦火の中を熊本城へ入城し、救援部隊第1号となった[12]。西南戦争を「会津藩名誉回復の戦争」と捉えており、「薩摩人 みよや東の丈夫(ますらお)が 提げ佩く太刀の 利(と)きか鈍きか」という歌を詠んでいる。明治13年(1880年)4月には陸軍歩兵大佐に進級した[2]。その後、陸軍省人員局長 兼 輜重局長、陸軍省総務局制規課長を歴任した[2]

明治19年(1886年)4月、現役の陸軍歩兵大佐のまま、高等師範学校(のち東京高等師範学校東京文理科大学東京教育大学→現:筑波大学)の校長兼任を命じられ、明治24年(1891年)8月まで在任した[2]高等師範学校附属中学校の校友会である「桐陰会」の会長も務めた。

明治20年(1887年)、高等師範学校の附属学校について次のように述べている。

「附属校園は全国学校の模範たるべきものである。然るに規律なく乱雑では仕方ないから、之を改革するために努力せよ。その為には全生徒に退学を命ずるもよし、或いは授業料を三倍にし、従来の生徒の此の校に居るのをひかせるのもよい」[13]

当時の授業料は50で、生徒は六百数十名だったが、授業料を値上げしてもほとんどが在学を望んだため、増収により良い教師を招聘して大いに校風を振起することができた。山川は軍人であったため校内規律を厳しく締め上げた。このため校内は秩序整然としたものになった[13]

軍人としては、高等師範学校長を務めながら明治19年(1886年)12月に陸軍少将に進級し、明治21年(1888年)12月に予備役に編入された[2]。明治23年(1890年)7月、第1回衆議院議員総選挙に旧会津藩領である福島4区から立候補したものの落選するが[14]、同年の9月29日に貴族院議員に勅選された[15]。谷や曾我祐準とともに院内会派懇話会を旗揚げして「貴族院三将軍」の異名をとった。

明治31年(1898年1月26日、軍務等の功により男爵に叙せられた。同年2月4日薨去。戒名は忠烈院殿靖誉桜山大居士。墓は青山霊園にある。

山川男爵家は、妹の常盤と妹婿(婿養子)山川徳治の息子の戈登、次いで戈登の弟の、次いで浩の弟健次郎の四男のと、養子入りにより名跡を保った。

家族

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  • 祖父・山川兵衛 重英 - 会津藩士。目付、普請奉行、町奉行等を経て、勘定奉行、若年寄、1839年に家老に昇進した[16]
  • 父・山川尚江 重固 - 会津藩士
  • 母・えん - 会津藩士・西郷十郎右衛門 近登之[注釈 2]の娘。
  • 姉・山川二葉
  • 弟・山川健次郎 - 男爵
  • 妹・山川常盤 - 三男、四男が浩の養子となり襲爵。娘のきくゑ(1888年生)は名尾良辰の妻。[17]
  • 妹・大山捨松
  • 妻・登勢 - 会津戦争で砲弾を浴びて戦死。[16]
  • 妻・なか(1860年生) - 池谷金五郎の娘。1878年頃再婚。[16][18]
  • 長男・洸(1872-1906) - 内妻の志づとの子。米国で客死。[16][18]
  • 養子・山川戈登(ごるどん、1886-1910) - 甥(妹・常盤の三男)。名前は浩が尊敬していたチャールズ・ゴードンにちなんだと言われる。浩の男爵を継いだが東京帝国大学在学中に死去。[16]
  • 養子・山川廉(1892-1913) - 甥(妹・常盤の四男)。戈登に次いで襲爵したが急死。[16][18]
  • 養子・山川建 - 甥(弟・健次郎の四男)。廉に次いで襲爵。没後、子の健重が襲爵。

人物

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  • 鳥羽伏見の戦いの敗走中に腸チフスと思われる熱病を患い、紀伊国小松原村(御坊市湯川町小松原)の旅人宿「中屋」で看護を受け、その恩義から1882年(明治15年)5月に感謝の手紙と九谷焼の大皿2枚を贈り以後も交流が続いた[19]
  • 腕っぷしが強く強情な性格だった。エジプトでピラミッドを見学した際、東洋人をさげすむ態度をとった現地ガイドを殴りつけたという。
  • 妹・捨松が旧友アリス・ベーコンに送った手紙や柴五郎の回顧などによると、邸宅には常に元会津藩関係者が寄宿しており、また出世した浩に対してたかりのように仕送りをせがむ親戚もいたらしく、晩年まで生活は非常に苦しかったという。また、生涯にわたって会津藩に尽くしたが、一方で非常に反骨心のある人物で、藩学だった朱子学を嫌って陽明学を学んでいたという。
  • 幕末の一級史料である『京都守護職始末』を記したことで有名だが、自身は草稿段階で死去したため、実際は弟・健次郎が完成させたとするのが定説となっている。

栄典・授章・授賞

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位階
勲章等

著作

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脚注

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注釈

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  1. ^ 祖父の重英は、明治2年(1869年)に数え86歳で病没[6]
  2. ^ a b 出典([7])に、母方の祖父・西郷十郎右衛門のが「近登之」(3文字)であったと記載されている。

出典

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  1. ^ 第1章 家系と生い立ち:1 祖父兵衛君家老職に抜擢せらる」『男爵山川先生伝』故男爵山川先生記念会、1939年、2-3頁https://dl.ndl.go.jp/pid/1058238/1/24 
  2. ^ a b c d e f 秦 2005, p. 164, 第1部 主要陸海軍人の履歴:陸軍:山川浩
  3. ^ 寺沢 2009, pp. 59–63, 第三章 異国に娘を留学させた親たち:会津藩最後の家老・山川浩(山川捨松の兄)
  4. ^ 『慶應年間 会津藩士人名録』勉強堂書店
  5. ^ a b 花見 1939, pp. 3-5, 第1章 家系と少年時代:2 祖父兵衛君家老職に抜擢せらる
  6. ^ 花見 1939, p. 56
  7. ^ a b 花井 1939, pp. 5–7, 第1章 家系と少年時代:3 母上唐衣君
  8. ^ 中村(2007)、205p.
  9. ^ 寺沢 2009, pp. 59–63, 第3章 異国に娘を留学させた親たち:会津藩最後の家老・山川浩(山川捨松の兄)
  10. ^ 久野 1988, pp. 27–31, 会津藩の悲劇:さむらいの娘
  11. ^ 久野 1988, pp. 37–41, 会津藩の悲劇:籠城戦
  12. ^ 中村(2007)、208p.
  13. ^ a b 『桐陰会創立二十周年記念号』(明治43年12月)p. 8、『創立百年史 筑波大学附属中学校・高等学校』(昭和63年10月08日)p. 12に再録
  14. ^ 『ザ・選挙』第1回衆議院議員選挙福島4区
  15. ^ 『官報』第2182号、明治23年10月6日。
  16. ^ a b c d e f 遠藤由紀子「会津藩家老山川家の明治期以降の足跡 ―次女ミワの婚家・桜井家の記録から―」『昭和女子大学女性文化研究所紀要』第45巻、昭和女子大学女性文化研究所、2018年、13-36頁、ISSN 0916-0957NAID 120006472849 
  17. ^ 名尾良辰『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  18. ^ a b c 山川戈登『人事興信録』初版 [明治36(1903)年4月]
  19. ^ 御坊で会津藩士寄贈の椀見つかる”. 日高新報. 2021年9月21日閲覧。
  20. ^ 『官報』第1003号「叙任及辞令」1886年11月1日。
  21. ^ 『官報』第2439号「叙任及辞令」1891年8月15日。
  22. ^ 『官報』第527号「賞勲叙任」1885年4月8日。
  23. ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
  24. ^ 『官報』 第4368号 1898年1月27日 「授爵叙任及辞令」

参考文献

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関連文献

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  • 「従三位勲三等 貴族院議員陸軍少将 山川浩」(杉本勝二郎編纂 『国乃礎後編 下編』 国乃礎編輯所、1895年4月 / 霞会館、1991年10月)
  • 山川浩君之伝」(前掲 『さくら山集』)
  • 「陸軍少将山川男伝」(三島毅著 『中洲文稿第四集 三』 二松学舍、1917年4月)
  • 櫻井懋編 『山川浩』 1967年12月
    • 『続山川浩』 続山川浩伝刊行会、1974年3月
    • 『復刻版 山川浩』 歴史春秋出版、2016年6月、ISBN 9784897578811
  • 今田二郎 「父勝與の 山川将軍に関する思い出」(『会津史談』第56号、会津史談会、1982年7月)
    • 「長篠古戦城と山川浩歌碑」(『会津史談』第58号、1984年5月)
    • 「山川浩将軍を偲ぶ」(『会津史談』第59号、1985年5月)
    • 「続・山川浩将軍を偲ぶ」(『会津史談』第60号、1986年5月)
  • 「山川健重(男爵)」(霞会館華族家系大成編輯委員会編 『平成新修 旧華族家系大成 下巻霞会館、1996年11月、ISBN 9784642036719
  • 中村彰彦著 『逆風に生きる : 山川家の兄弟』 角川書店、2000年1月、ISBN 4048732064

関連作品

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小説
漫画
映画
テレビドラマ
ドラマCD

関連項目

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外部リンク

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日本の爵位
先代
叙爵
男爵
山川(浩)家初代
1898年
次代
山川戈登