進徳館 (高遠藩)
表示
進徳館 | |
---|---|
進徳館校舎外観 | |
情報 | |
用途 | 歴史資料館 |
旧用途 | 藩校・学校 |
開館開所 | 1860年 |
所在地 | 長野県伊那市高遠町 |
座標 | 北緯35度50分3.7秒 東経138度3分47.8秒 / 北緯35.834361度 東経138.063278度座標: 北緯35度50分3.7秒 東経138度3分47.8秒 / 北緯35.834361度 東経138.063278度 |
文化財 | 国の史跡(史跡「高遠城跡」の一部として指定) |
指定・登録等日 | 1973年史跡指定 |
進徳館(しんとくかん)とは、長野県伊那市高遠町高遠城内に設けられた高遠藩の藩校である。城址敷地内に現存する藩校建造物は珍しく[1]、1973年(昭和48年)国の史跡に指定された(史跡「高遠城跡」の一部として指定)。
創設の経緯
[編集]昌平黌に学んだ高遠藩儒中村元起の進言を受けて、第8代藩主内藤頼直が、万延元年(1860年)閏3月24日、城内三ノ丸旧内藤蔵人の屋敷に学問所 進徳館を開いた。易経の「君子進徳修業、忠信所以進徳也(君子は徳に進み業を修む。忠信は徳を進むる所以なり)」に因む。
文武総裁に岡野小平治、師範役に海野幸成、中村元起を任命した。頼直は創立に際し「実学専一ニ心掛クベキ」と諭達した。藩士の子弟は8歳から15歳まで必ず出席させ、これを幼年部とし、他に中年部を置いた。学科目は漢学、筆学、習礼、武術、兵学であった。後に和学、算額が加えられ、西洋式兵式教練も行われた。明治4年(1872) 廃藩置県によって高遠県学校となり、明治6年(1873)に廃校となり、存続期間はわずか13年間であったが、500名を超える人材を輩出した。明治6年(1873) 学制発布により各町村に学校が設立されるなか、筑摩県の教師の大部分は進徳館の出身者であったといわれる。正確な数はわからないものの、その数300名を越え、信州教育の原点の一つとなったと言われる。 [2]。
進徳館に関わる人物
[編集]師範
- 岡野小平治(おかの こへいじ)・文武総裁
- 中村元起(なかむら もとき)(1820~1884)・師範
- 海野幸績(うんの こうせき)(1842~1911)・師範
- 高橋白山(たかはし はくざん) (1836~1904)・助教
- 長尾無墨(ながお むぼく) (1832~1894)大助教[10]
生徒
- 伊沢修二(いさわ しゅうじ)(1851~1917)・後に助教
- 内田文皐(うちだ ぶんこう) (1842~1910)
- 後藤杉蔵(ごとう すぎぞう)(1850~1912)
- 青山勝謙(あおやま しょうけん)(1854~1904)
- 久保譲次(くぼ じょうじ)[11](1846~?)
- 中村弥六(なかむら やろく)(1854~1929)
- 高橋作衛(たかはし さくえ)(1867~1920)
- 神尾光臣(かみお みつお)(1855~1927)
- 安東貞美(あんどう さだよし)(1853~1932)
- 小野光景(おの みつかげ)(1845~1919)
- 伊沢信三郎(いさわ しんざぶろう)(1856~1925)
- 河野通万(こうの みちかず)(1852~1887)
- 馬場凌冬(ばば りょうとう) (1842~1902)
- 伊藤瀬平(いとう せへい) (1864~1923)
脚注
[編集]- ^ 『高遠城跡 文化遺産オンライン』 。2015年1月25日閲覧。
- ^ 高遠町教育委員会.「高遠町風土記」ほおずき書籍.2004年
- ^ 上伊那誌編纂会『長野県上伊那誌人物編』上伊那誌刊行会 昭和45年12月1日
- ^ 唐澤貞治郎編『上伊那史 上伊那郡教育會蔵版(復刻版)』 昭和48年6月7日
- ^ 『上伊那文化大事典』信濃路出版販売株式会社 1990年4月26日
- ^ 角 憲和『信州ふるさと叢書 阪本天山』岳風書房 平成12年6月14日
- ^ 岡部善治郎 『中村元起の人物と進徳館の教育(高遠町図書館叢書)』高遠町図書館 平成4年12月1日
- ^ 村山吉廣 『藩校 人を育てる伝統と風土』明治書院 平成23年5月
- ^ 長谷川正次 『シリーズ藩物語 高遠藩』現代書館 平成17年11月
- ^ 『善光寺繁昌記』光竜堂、2008年1月14日、78頁。
- ^ 久保天随の父、久保亮五の祖父
参考文献
[編集]- 『長野県史 通史編 第6巻 近世3』
- 大石学編『近世藩制・藩校大事典』吉川弘文館、2006年。
関連項目
[編集]- 進徳館 - その他の進徳館
- 伊那市の名所・旧跡・観光スポット