三浦安
三浦 安 みうら やすし | |
---|---|
| |
生年月日 |
1829年9月15日 (文政12年8月18日) |
没年月日 | 1910年12月11日(81歳没) |
死没地 | 東京府東京市赤坂区青山 |
前職 | 紀州藩士 |
称号 |
錦鶏間祗候 勲一等旭日大綬章 |
在任期間 | 1882年5月24日 - 1890年10月20日 |
選挙区 | 勅選議員 |
在任期間 | 1890年9月29日[1] - 1910年12月11日 |
在任期間 | 1893年10月26日 - 1896年3月14日 |
三浦 安(みうら やすし、1829年9月15日〈文政12年8月18日〉- 1910年〈明治43年〉12月11日)は、日本の幕末から明治時代の武士(紀州藩士)、政治家。
経歴・人物
[編集]紀州藩支藩の西条藩士・小川武貴の長男として生まれ、幼名を光太郎又は五助と名乗る。江戸の昌平坂学問所で学ぶ。一時、尊皇攘夷派志士として活動していたと言われる。後に三浦家の養子となり、三浦休太郎を名乗った。また、内田敬之助の変名も用いている。
14代目将軍継嗣問題に関して徳川家茂を支持して能力を認められ、主家である紀州藩に取り立てられる。
慶応3年(1867年)4月、いろは丸沈没事件が起こり、紀州藩代表として海援隊代表・坂本龍馬と交渉したが、国際法を用いられて敗れ、多額の賠償金(8万3000両)を支払う結果となってしまう。そんな折、龍馬が京都近江屋で暗殺され、賠償問題で恨みがあったとされる休太郎が海援隊士に容疑者として狙われることとなった。休太郎は新選組に身辺警護を依頼し、天満屋事件へと発展、顔面を負傷したものの命に別状は無かった。
戊辰戦争が勃発すると一時捕縛されたが、間もなく釈放されて明治政府に出仕した。維新後は諱である安を名乗り、大蔵省官吏、元老院議官、貴族院議員を務め、1890年10月20日、錦鶏間祗候となる[2]。第13代東京府知事[3]となるが淀橋浄水場をめぐる疑獄事件から不信任を決議され、知事を解任された[4]。知事解任後は、宮中顧問官などを歴任した。また香瀾という雅号もあった。
明治43年(1910年)に脳溢血により青山の自宅で死去、81歳[5][6]。墓所は東京都豊島区妙行寺にある。
明治23年(1890年)12月に出版された 『国会傍聴 議場の奇談』には「尾崎三良氏の演説は中々上出来 三浦安氏の弁舌は流暢なり共に老練々々」と記されている。
三女・友香の夫の医師・緒方銈次郞の父方祖父は緒方洪庵、母方曽祖父は佐藤泰然[7]。
栄典・受章・受賞
[編集]- 位階
- 勲章等
- 1888年(明治21年)5月29日 - 勲二等旭日重光章[11]
- 1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[12]
- 1896年(明治29年)3月31日 - 勲一等瑞宝章[13]
- 1903年(明治36年)5月21日 - 金杯一個[14]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 旭日大綬章[15]
関連作品
[編集]- 浅田次郎著『壬生義士伝』(文春文庫)2002年9月10日刊
脚注
[編集]- ^ 『官報』第2182号、明治23年10月6日。
- ^ 『官報』第2195号、明治23年10月22日。
- ^ 東京府知事更迭新知事三浦安 明治26年10月27日『新聞集成明治編年史. 第八卷』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 東京市会市長不信任を決議 明治28年12月11日 東京日日新聞三浦安知事の不信任を決議 明治28年12月23日 日本(新聞)『新聞集成明治編年史. 第九卷』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 明治43年12月13日東京日日新聞『新聞集成明治編年史. 第十四卷』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「議員薨去及び弔辞」『官報』1910年12月14日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 緒方銈次郞『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
- ^ 『官報』第994号「叙任及辞令」1886年10月21日。
- ^ 『官報』第5021号「叙任及辞令」1900年3月31日。
- ^ 『官報』第8244号、「叙任及辞令」1910年12月13日。
- ^ 『官報』第1473号「叙任及辞令」1888年5月30日。
- ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
- ^ 中野文庫・旧・勲一等瑞宝章受章者一覧(戦前の部)
- ^ 『官報』第5964号「叙任及辞令」1903年5月22日。
- ^ 『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。
外部リンク
[編集]- 『人事興信録. 初版(明36.4刊)』(国立国会図書館デジタルコレクション)